武田信玄

武田信玄

晴信は父の意で、天文2年(1533)に僅か13歳で武蔵河越城主上杉朝興の娘を娶らされが、この幼な妻は良く3年に死去してしまう。
天文5年3月に、元服任官して、從五位下に叙任され、時の将軍足利義晴の偏きを受けて、名を晴信とした。同7月には三條公頼の娘を妻に迎えた。この頃次第に晴信を遠ざける態度を取るようになった父信虎との確執が表面化してきた。

天文16年6月ついに晴信はクーデターを敢行し、父を駿河の今川義元の元に追放して自立した。
父の築き上げた領土を受け継ぎ、群雄割拠の戦国時代の覇の争そいに入って行った。

門出の一戦は、諏訪連合軍と対戦し、天文11年諏訪頼重を滅ぼし、信濃経略の一歩を記した。
以後上伊那方面を攻略し、佐久方面へと進出し、さらに天文14年になると、駿河へも出兵し、今川義元を援けて、北條氏康とも戦っている。

時には苦戦もあり、同15年の戸石城攻め、17年の上田原の合戦など、何れも村上義清軍との対戦であった。
反面法度の制定や、土手の修復など内政面の充実も計って、民政家としても一面も覗かせていた。

信濃を制圧するには、北信濃を手に入れる事が不可欠であった。その結果越後の上杉謙信との宿命の対決が天文22年から始まるのであった。川中島の合戦は都合5回行われるが、特に永禄4年(1561)9月の4回戦目は壮絶を極めるのであった。
一方では、北條・今川との間で甲駿相同盟を結ぶと言う、巧みな外交戦を繰り広げて、信越国境の一部を除いて、信濃の大半を手に入れるのであった。

永禄2年晴信は剃髪得度して初めて謙信を号した。佐久の松原神社に、信玄の最初の願文が納めらている。
永禄3年今川義元が桶狭間で織田信長に殺されると、信玄は先の北條・今川の同盟を捨てて信長と組み、駿河方面へと侵略を企てる。

ところが義元から娘を娶っている嫡男の義信との不和がこれを機に激化してしまう。謀反の企ては失敗に終わり、義信は幽死させられ、妻は今川家に送り返されてしまう。
永禄11年に、今川氏眞を追って駿府を占領する事で、三国同盟は完全に瓦解してしまった。

信玄の宿望は飽くまでも、上洛して天下に号令する事であった。
元亀3年(1572)ついに信玄は大軍を率いて西上するに至った。緒戦に二股城を攻略し、三方が原では織田・徳川軍に圧勝し、遠江で越年し、三河に入り、野田城を陥落させた。

意気大いに上がってた信玄軍であったが、直後陣中で発病してしまった。天正元年4月信濃の駒場まで引き返したが、同月12日むなしく病没した。53歳であった。死因は今で言う胃癌のよであった。

 

時代
戦国時代(室町時代後期)
生誕
大永元年11月3日
死没
元亀4年4月12日
幼名/通称
太郎
別名
勝千代、晴信、
入道号
徳栄軒又信玄
法名
機山信玄(玄公)恵林寺
墓所
武田神社、信玄墓、大泉寺、恵林寺、諏訪湖、長岳寺、竜雲寺、高野山、福田寺妙心寺ほか

官位 從四位下、大膳大夫、信濃守贈從三位 、法性院大僧正

室町幕府
甲斐守護職・信濃守護職
武田陸奥守信虎
大井信達の娘(大井の方)
兄弟
竹松、武田大膳大夫晴信(信玄)、犬千代、今川治部大輔義元室(定惠院)、穴山伊豆守信友妻、武田左馬助信繁、武田上野介信基、諏訪刑部大輔頼重妻、武田刑部少輔信綱、大井次郎某妻、松尾次郎信是、武田宗智(恵林寺)、下條の母となる娘、川窪兵庫頭信實、一條右衛門大夫信龍、禰津~平某の母となる娘、菊亭右大臣晴季室
正室
上杉朝興の娘 
継室
三條左大臣公頼の娘
側室
諏訪刑部大輔頼重の娘(諏訪御料人)、禰津宮内大輔元直(禰津御寮人)、油川夫人 ほか
子供
武田太郎義信、武田四郎勝頼、海野二郎信親、仁科五郎盛信、武田信之、北條左京大夫氏政室(黄梅院)、穴山入道梅雪室(見性院)、木曾伊豫守義昌室(真竜院)、葛山十郎信貞(或義久)、武田信清、松姫(新館比丘尼)、上杉權中納言景勝室(菊姫 )

 

私観

甲斐の虎、甲斐の龍とも言われた武田信玄は恐れられた武将のイメージが多くありますが、内政面や外交手腕に長けて居たようです。また学識もかなり高く京から公家を招いて詩歌会や連歌会を催していたようです。自身もまた数多くの歌や漢詩を残している事でも有名です。先ず一国の長たるもの見本のような人でしょうね

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恐れられた武将のイメージが多くありますが、内政面や外交手腕に長けて居たようです。