最上義光

最上義光

最上氏は清和源氏足利一門斯波氏の族で、延文年間(1536〜60)奥州探題斯波家兼(大崎氏祖)の次男が羽州探題として出羽國村山郡最上郷山形に城を築き、初めて最上を称した。
義光はその11代目で、出羽山形藩の初代となる。

父の義守は嫡男である義光より次男の義保を溺愛し、家督を相続させようとして義光と対立する。
元亀元年(1570)山寺立石寺に祈願状を納め義保打倒を誓った。親子抗争は宿老氏家伊豫守定直の建言で一応和解となり、義光が家督相続し、義保は中野城城主にし、落着と見えたが、天正2年(1574年)両者は再び険悪になる。義保を擁して「半義光派」が結束して蜂起する。隠居していた父義守をはじめ中野、天童、高櫛、蔵増、若木、山野邊らが同盟して抗争が始まる。岳父義守の要請に伊達輝宗が最上領内に入った。

その後伊達の力から谷地城主白鳥長久が調停に入り、和解したかに見えたが、義光は反旗を翻した最上一族の中野、天童、東根、上山氏らの根絶やしにするために、重臣を離反させ内部から崩壊させる残忍な手段で滅亡の淵に追いやり、強固な領國制を敷いて行った。
天正9年に庭月城主庭月廣綱、真室川城主鮭延秀綱、新庄城主日野左京亮らを撃破。天正11年に庄内尾浦城主武藤義氏を自刃に追い込み、同15年には庄内地方を完全に制覇した。

また一方では同12年白鳥長久を山形城に招いて、謀殺し、伝統ある大江氏の宗家寒河江城主尭元も滅亡に追いやった。
しかしピークは天正15・6年ごろまでで、上杉軍の後押しで本庄の武藤父子と越後の國境で戦い二千五百人が討ち取られる大敗を喫し衰運に向かう。

反伊達の勢力衰え見せ、義光は全くの四面楚歌の立場に追い込まれた。
天正18年秀吉の小田原参陣と言う好機に巡り会い、動乱期の危機を回避する事が出来た。

翌19年知行宛行状が交付され、十三萬石を給された。
慶長5年関ヶ原合戦では徳川方に属し、上杉軍の直江兼續に孤立するがよく踏み止まり、同6年志駄義秀が守る酒田城を攻略し、置賜郡を除く現在の山形県のほぼ全域を統一、52万石(一説に57万石)の大封を領する事となった。

 

時代
戦国時代 - 江戸時代前期
生誕
天文15年1月1日
死没
慶長19年1月18日
改名
白寿(幼名)→義光
別名
源五郎、二郎太郎(通称)
法名
光禅寺殿玉山道白大居士
官位
従四位上、右京大夫、出羽守、右少将、贈正四位
出羽山形藩主
最上修理大夫義守
小野少将(永浦尼、大崎氏説とも)
兄弟
嫡子右少将義光、義姫・保春院(伊達左京大夫輝宗室)、長瀞新八義保、楯岡甲斐義久、
正室
釈妙英(大崎義直の娘)
継室
清水義氏の娘
側室
天童御前(天童頼貞の娘)、他
子供
修理大夫義康、嫡子侍從家親、清水大蔵氏満、山野邊右衛門義忠、上野山兵部光廣、大山内膳光隆、竹姫(氏家尾張國綱妻)、松尾姫(野邊澤能登満延妻)、駒姫(豊臣秀次妾)

 

私観

義光以降の子女は不幸続きで、例えば豊臣秀次の側室となった駒姫は聚楽第事件に連座して京都賀茂の河原で惨殺され、長男の義康は慶長8年高野山を登る途中射殺されている。
これは正に義光の過去の横暴な政治手腕を呪ったもののように思われる。

またこの後に至っても12代目の嫡子家親は36歳の若さで亡くなり、毒殺ではとの噂もたった。その嫡子である義俊の時には派閥抗争が原因で改易され近江に移されて1万石を領するだけに至っている。後の系図を見ていても嫡子が30・40代で亡くなってるのが目に止まります。
因みに義俊26歳→義智62歳→義雅44歳→義如38歳→義章51歳→義隆38歳→義郷37歳→郷倍42歳となっています。

皆さんはこれをどう見ますか

最上義光関連歴史人物

最上義光
歴史上の人物を日本地図や地域から探せるデーターベースサイトです。