源義重

源義重

武家の棟梁となる八幡太郎義家の孫にあたるのが、この義重で、新田氏の始祖になる人物です。弟の義康は足利の始祖になります。
父の義國が下野國(現在の栃木県)足利荘を開拓開墾し、この地は弟の義康に渡し、義重とともに上野國新田郡の開拓事業を開始します。がその過程において諸勢力と緊張関係となり、弟の義康の機転で関東を束ねていた義朝・義平父子と提携して、娘を義平の室に入れ、甥の足利義清にも娘を嫁がせています。

こうして保元2年(1157)には平家系の藤原忠雅に取り入り、新田荘の立券を勝ち得て、自ら新田荘司と称した。
この事から敵対していた藤姓足利氏や秩父氏と武力抗争に至り、渡良瀬川の強行渡河作戦によりこれを撃破する。これを秩父足利合戦という。

また同時に親族の甲斐國武田信義とも親交を深め、嫡子の信光に自分の娘を嫁がせている。
治承4年(1180)の源頼朝の挙兵には、甥や子供、孫まで帰参したが、一時日和見的な態度を取る。これは新田荘は元々平家方の荘園であった事や、他方で木曾義仲を牽制する意味を含んでいたようだ。

やがて優位に立った頼朝に慌てて鎌倉に駆けつけるが、容易に頼朝の不信感を拭う事が出来なかった。ようやく安達盛長の取り成しで帰参が叶うが、娘を側室に乞われ、これを拒否することからより一層不興を頼朝から買ったと伝えらている。
義重は鎌倉幕府成立には積極的には協力したとは、言いがたいものがあったようだ。

一方では甥の義兼などは早くから頼朝のもとに駆けつけて活躍して幕府内の地位を得ている。
しかし家系的には八幡太郎義家に最も近い血統の持ち主という事から一定の敬意を受けていたようです。

 

時代
平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕
永久2年(1114年)、または保延(1135年)
死没
建仁2年1月14日(1202)
改名
義重、上西入道
別名
新田太郎
墓所
群馬県太田市別所町の円福寺
官位
従五位下、九条院判官代、左衛門尉、木工助、大炊助、贈鎮守府将軍
祖父
源陸奥守義家
源加賀介義國
藤原敦基の娘
兄弟
新田大炊助義重、足利陸奥判官義康、季邦
源親弘の娘
子供
山名伊豆守義範、里見(新田、竹林、大新田)太郎義俊、小新田大炊助義兼、得川四郎(徳川三郎)義季、額戸三郎経義、祥寿姫、新田冠者義光、新田小四郎義佐、足利義清室、武田信光室、那須与一室、得河義秀(子供たちは系図により諸説あるようです。官途が記されてるのは寛政重修より)

 

私観

八幡太郎義家の直系に当たるのがこの義重と言うことになるようで、後日こじつけたのであろう徳川家の始祖と言う事にもなりますね。

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後日こじつけたのであろう徳川家の始祖と言う事にもなりますね。