上杉謙信

上杉謙信

天文21年(1552)関東管領上杉憲政は小田原の北條氏康に追われ、居城の平井城を捨て、越後の謙信を頼って来た。翌22年その依頼により初めて関東に出陣し、直ちに平井城を回復させ、前進基地とした。この時から謙信は14回にわたって関東に出陣することとなる。
同じ22年武田信玄の川中島進出に対して村上義清、小笠原長時及び北信諸豪族擁護と自衛ため出兵する。この時から数えて信玄と5度にわたって対戦する事になる。

この年上洛して、後奈良天皇に将軍足利義輝に拝謁し、大徳寺に参禅して、宗心と号するようになる。
永禄2年(1559)義輝の斡旋により、信玄と一時休戦再度上洛し、正親町天皇と将軍義輝に拝謁し、正式に関東管領に補任され、彈正大弼に任じられ、帰国する。

同年関東に出陣 沼田城を落とし、厩橋(前橋)城に入り、新たな関東鎮圧の前進基地とした。
同3年3月 関東諸将十万餘の大軍で小田原城を囲んだが、北條氏康の守りは堅く、謙信は兵を退けた。4月帰途鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領就任式をあげ、上杉姓を継ぎ、名を政虎と改めた。

一息入れた謙信は、8月になると川中島に出陣 9月信玄と俗に言う川中島の合戦と言われることになる未曾有の戦いが行われた。甲州方の啄木鳥戦法の裏をかいて、甲州軍を追い込み、信玄の本陣に乗り込み、一騎打ちとなり、信玄に軽傷を負われるも、結局勝負はつかなかった。
謙信は関東及び川中島に出陣を繰り返し、信玄、氏康との抗争が続いていた。永禄も後期の12年頃不識庵と号し、初めて謙信と称したとされる。

宿敵の信玄は元亀3年(1572)天下平定のため、上洛軍を発したが、不運に途中病没してしまう。謙信は城下の武家屋敷にかぎって三日間筝曲を禁じて喪に服したと言われている。
後年謙信は信長と対峙する事になるが、特に天正5年に衝突、謙信は越中・能登・加賀にある末森城を屠り、加賀の中央部に進出した。信長軍は北陸の常備兵を総動員して、手取川を背に陣を敷いた。兵力五万 謙信側三万五千 前哨戦が行われいる最中に暗くなり、また雪まで降ってきた。信長軍は越軍に恐れをなし、夜間撤退を開始する。謙信軍これを追い、先頭部隊は手取川まで追撃し、信長軍の戦死者は三千人にのぼったと言われる。

翌6年信長討伐のため、兵を募り数万の兵が参集してきた。
しかし謙信は3月13日脳溢血のため急逝してしまう。生涯妻を娶らなかった謙信は子が無く、甥の景勝が跡を継いだ。

 

時代
戦国時代
生誕
享禄3年1月21日
死没
天正6年3月13日
幼名
虎千代
別名
平三 長尾景虎、上杉政虎、輝虎、不識庵謙信
宗心
戒名
不識院殿真光謙信
墓所
上杉家廟所、春日山林泉寺、高野山ほか
官位
従五位下、彈正少弼、彈正大弼 、權大僧都法印
幕府
室町幕府 越後守護代、関東管領
長尾信濃守爲景
青岩院(虎御前)長尾肥前守顕吉の娘
養父
長尾晴景、上杉修理大夫憲政
兄弟
長尾彌六郎晴景、長尾景康、長尾景房、仙桃院(長尾政景室)
義兄弟
上杉宗四郎憲藤、上杉憲重、上杉憲景 、小五郎某
養子
畠山義春、山浦景國、上杉三郎景虎、上杉中納言景勝
養女
山浦國清室(朝倉義景の娘)

 

私観
北條氏康が謙信について「武将言行録」の中でこう書いてる。

(武田信玄、織田信長は表裏反覆して頼りに足りず、独輝虎のみ受合ひたる上は骨になるまでも義理を違へざるものなれば、輝虎の肌着を分けて、若き武将の守袋にさせ度思なり)と書いてあり、無骨で律儀な武将を想像させるし、また義理人情を大切にする人物に間違いないとも思われる。上杉から請われて最終的には上杉家を救い、末裔の反映の礎ともなっている。

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無骨で律儀な武将を想像させるし、また義理人情を大切にする人物に間違いないとも思われる。