眞田幸村

眞田幸村

武田滅亡後の天正13年(1585)父の昌幸が徳川家康と上野の沼田領を廻って対立が深まり、救済を求めて上杉景勝もとに人質となって行った。そのことが景勝に信用され信濃の屋代郷を与えられた。
同15年には秀吉の近臣となり、後の敦賀城主大谷吉継の娘を妻に迎えた。

秀吉の死後慶長5年(1600)父の昌幸、兄の信之とともに家康率いる上杉景勝討伐軍に加わったが、下野の犬伏宿で石田三成の密使に接した。
家康に就くか、三成に就くかの親子三人はここで密談を開いた有名な「犬伏の別れ」である。

結果は昌幸と幸村は三成方の西軍につき、兄の信之は家康の東軍につくことになった。昌幸の妻は三成の妻と姉妹の関係にあり、大谷吉継も西軍に加担し、娘は幸村の妻である。また兄信之の妻は家康の重臣本多忠勝の娘と言う事も、親子で兄弟で敵味方に分かれた理由の一つになったのであろう。一般的には家を滅ぼさない為が通説とされているようです。
幸村は父とともに引き返し上田城に籠城した。家康の子秀忠が西上する別働隊三万八千人は中山道を登って来た時に、父子は一撃を加え、秀忠軍は一部の兵を残し西上するが、所々で足止めをくらい、予定よりも十日も遅れ、ついに関が原の合戦には間に合わなかった。

合戦に勝利した家康は、昌幸、幸村に死を与えようとしたが、信之の嘆願により、紀州九度山村に配流した。
慶長16年 昌幸は配所で六十五歳で没した。幸村は入道して好き白、或いは傳心月叟などと号した。

同19年 幸村は豊臣秀頼の誘いに家臣とともに大阪城に入城した。東西手切れになったが、大阪には大名は一人も入城せず、もと大名や高禄だった事のある長曾我部盛親、仙石秀範、毛利勝永、明石掃部、後藤又兵衛のほか十万人の浪人が参集した。
傀儡の主将秀頼であり、兵の数も関東は三十万とはるかに多かったと言われている。

12月になり、冬の陣が始まり、幸村は三の丸の外に築いた眞田丸で寄手を悩まし、講和を迎える。翌元和元年に、夏の陣が始まり、講和の約束に反して三の丸・二の丸の堀や石垣を埋められ、大阪城は本丸だけとなってしまった。籠城も不可能な状態となり、兵力も関東の十五万に対し、六万七千に減じていた。
この時幸村に家康より、味方に就くなら信濃一国を与えようと言ってきたが、彼はこれを断り、武士としての筋を通した。

5月6日城外で激戦が行われ、大阪方では後藤又兵衛、木村重成が討死した。7日幸村は四千五百の兵を率いて最後の決戦に挑み、家康の本陣を猛襲した。本陣は総崩れになり、旗本たちは家康を囲んで敗走し、家康の旗も倒され、踏みつけられいる。これは三方が原の合戦以来の事であった。
兵力の差で幸村も終に討死四十九歳であった。「眞田日本一の兵」と言われ、最後の手向けとなった。

 

時代
戦国時代 - 江戸時代初期
生誕
永禄10年(1567年)一説に永禄13年(1570年)とも
死没
慶長20年5月7日一説に寛永18年(1641年)とも
幼名
弁丸
改名
眞田信繁、好白(法名)
別名
源次郎、幸村、豊臣信繁、伝心月叟
官位
従五位下、左衛門佐
本姓
滋野氏、豊臣贈姓
眞田安房守昌幸
宇多頼忠の娘・山手殿(寒松院)
兄弟
伊豆守信之、左衛門佐信繁、小山田壱岐茂誠妻、瀧川三九郎一積,

眞田長兵衛幸政妻、内匠昌親、左馬助信勝、妻木彦右衛門重直妻

正室
大谷吉継の娘・竹林院(利世)
側室
豊臣秀次の娘・隆精院、堀田興重の娘、高梨内記の娘
子供
真田幸昌、片倉守信、三好幸信、石田之親、瓢左衛門、阿菊(石合重定室)、於市、阿梅(片倉重長継室)、あくり(蒲生郷喜室)、なほ(岩城宣隆室)、阿昌蒲(片倉定広室)、おかね(石川貞清室)

 

私観

眞田幸村と言われるのやはり武士を最後まで貫いた人物として捉えてしまいます。兵力さえあればあの家康にも勝てた人物ではないでしょうか。律義者の武士の代表ですね〜

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