相馬義胤

相馬義胤

陸奥相馬中村藩の始祖で相馬氏16代目当主
永禄7年(1564)父盛胤とともに、伊達領の伊具郡を攻略する。17歳であった。

天正4年(1576)7月伊具矢ノ目・妙賀山で伊達輝宗と合戦となり、その後も輝宗・政宗と長期にわたり館山・金山・小深田・新地・塩松・田村郡津宇志・常葉などで死闘を繰り返すが、天正11年伊達氏の和睦となり、丸森・金山を伊達家に返還する。
この戦で弟の兵部大輔隆胤が戦死することで、相馬家は退勢するが、天正18年秀吉の小田原の陣に参陣することで、この危機を脱し、本領を安堵された。

文禄2年(1593)検地により石高が6万400石餘となった。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦には上杉氏に通じた為に、戦後没領となって、三春に閉居される事になる。

その後許されて嫡子大膳亮利胤によって本領を収めることが出来た。
同16年標葉郡田村(現在双葉郡浪江町)に隠居した。

ところが寛永2年に嫡子利胤死去し、再び徳川家に仕える。
寛永3年(1626)10月 從五位下長門守に叙任する。

 

時代
戦国時代 - 江戸時代
生誕
天文17年(1548年)
死没
寛永12年11月16日
別名
孫次郎
法名
蒼霄院殿外天雲公大居士
官位
従五位下、長門守
 相馬彈正大弼盛胤、
 懸田義宗(または俊宗)娘
兄弟

嫡子長門守義胤、兵部大輔隆胤、忠次郎郷胤、亘理美濃守重宗妻

正室
 伊達左京大夫稙宗の女・越河御前(後離婚)
継室
 三分一所左衛門大夫義景の女(長江春近の娘)
子供

嫡子大膳亮利胤、岩城忠次郎貞隆室、左近及胤、越中久胤(19歳死去)、

 

私観

関ヶ原の合戦で一時没落の危機を迎えるが、大阪の陣に病弱な利胤に変わって従い、利胤もまた秀忠の代に病を推して、従っている。これが功を奏して後々相馬家は明治以降も名家として生き延びていく事になる。

相馬義胤関連歴史人物

相馬義胤
後々相馬家は明治以降も名家として生き延びていく事になる。