和田義盛

和田義盛

大多喜町・千倉町の住人とされてるようです。
和田氏は坂東八平氏のひとつ三浦氏の流れで、鎮守府将軍平忠通の長男の長門守爲通が、相模國三浦郷に知行を与えられ、衣笠山に城を築き三浦氏を称したとされている。その五代孫が杉本太郎義宗と杉本を名乗り、その長男の義盛が初めて和田称した。

義盛は頼朝将軍に仕え、相模國三浦郡和田の里(現在神奈川県三浦市初声町和田)、あるいは安房國和田御厨に所領があったことから和田を称したとされる。
三浦氏の一族は源頼朝が挙兵の時に参加し、鎌倉において頼朝によって初めて武家政権がつくられると義盛は初代の侍所別當に任じている。

元暦元年(1184年)8月頼朝の弟源範頼が平家追討の時に軍奉行として鎌倉を発向ぢ、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断し、平家滅亡に協力している。
平家滅亡後の文治5年(1189年)7月頼朝は奥州藤原氏討伐の軍を起こし、義盛はこれに従軍して武功を立てた。

建久元年(1190年)9月 頼朝の上洛に際して義盛は先陣を賜り、12月には頼朝の推挙により勲功の賞として左衛門尉に任じられている。
頼朝死去の建久10年(1199年)頼家が二代将軍になると義盛は宿老として十三人の合議制に列する事となった。

10月になると、梶原景時が結城朝光を讒言する事件が起こり、この変での景時弾劾追放の中心的な役割を果たした。
その後の比企能員の変では尼御台北条政子の名で御家人に比企氏討伐を命じられ、この時侍所別當であった義盛もこれに参加して比企氏は攻め滅ぼした。

畠山重忠の乱時では北條時政の嫡男の義時を総大将とする討伐の軍が発せられ、義盛も一手の大将軍として出陣し、幕府の大軍を前に重忠とその一族は滅ぼされた。義盛は一連の御家人の乱では北條氏に与していた。
しかし、建暦3年(1213年)二代執権北條義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、義盛は幕府軍を相手に鎌倉で市街戦を展開するが、敗れて討ち死にし、和田一族は滅亡した。これを和田合戦と言う。

 

時代
平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕
久安3年(1147)
死没
建暦3年5月3日(1213)
享年
67歳
別名
小太郎
官位
左衛門尉
幕府
鎌倉幕府 侍所別當、十三人の合議制
杉本太郎義宗
大庭景継の娘(長江義景の妹)
兄弟
義盛、和田次郎義茂 、杉本三郎宗實、杉本四郎義胤
正室
度会康高娘(豊受大神宮七社の禰宜)
側室
横山時重娘
子供
新左衛門尉常盛(甲斐國で誅せられる)、二郎義氏(父ともに討死)、朝比奈三郎義秀(安房國に脱出後高麗へ渡る)、左衛門尉義直(伊具盛重に討たれる)、五郎左衛門尉義重(父謀反で誅せらる)、六郎義信(父謀反で誅せらる)、七郎秀盛(父謀反で誅せらる)、杉浦八郎義國(父謀反時近江國に蟄居、この時三浦杉本の名を避け杉浦に改名)

 

私観

和田義盛と言えば湘南地方を思い出す。横須賀の衣笠山そして義盛が最後となった由比ガ浜など、和田の名前は未だにこの地方には根強いようである。本来は神奈川県の人物と言う事でしょうが、本管の一部でもあった安房國の人物と捉えて見ました。

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横須賀の衣笠山そして義盛が最後となった由比ガ浜など、和田の名前は未だにこの地方には根強いようである。