津軽爲信

津軽爲信

陸奥弘前四萬七千石津軽家初代当主
津軽氏の出自は諸説あり定かでは無いとされている。寛政重修諸家譜には藤原氏頼通流に納められ、政信から始まり、実父は詳らかにならず、近衛後法成寺尚通の猶子となる事から藤原氏と称すると言い支流に入る。始めは大浦氏を名乗り爲信の時に津軽に改めるとされている。

とこれが通説のようで、他に南部支族久慈治義の次男で久慈平蔵が大浦家の養子となった説があるらしい。
初め南部氏が津軽支配が衰えたのに乗じて自立する。津軽の諸地方の豪族もことごとく征服し、天正年間頃統一を完成させている。

早くから中央の近衛家や織田に通じ、天正18年の小田原の役に参陣して安堵を得ている。
近世大名として津軽藩の基礎が固まり、以後「津軽」を名乗るようになった。

文禄3年(1594)大浦城から堀越城に移り、さらに慶長8年から高岡(現在の弘前城址公園)に新城の構築が始められたが、完成を見ずして、没した。
また関が原の合戦には徳川方に属し、右京大夫に任じて、本領を賜い、新たに上野國勢多郡に二千石を加えられ、四万七千石の大名となった。

慶長12年には京都にいた長男の信建が病没したため上洛したが、自身も病を得てしまい58歳で京都において没した。

 

時代
戦国時代 - 江戸時代前期
生誕
天文19年1月1日
死没
慶長12年12月5日
改名
扇(幼名)、弥四郎、或平蔵、或兼武、右京
戒名
瑞祥院殿天室源棟大居士
墓所
津軽山革秀寺(青森県弘前市藤代)
官位
従五位下・右京亮、従四位下・右京大夫
弘前藩(津軽藩)藩主
大浦紀伊守守信、或久慈信長
養父
大浦爲則
正室
阿保良(戌姫、お福。大浦爲則の娘)
側室
栄源院
子供
宮内少輔信建、信堅、娘、越中守信枚(或信牧)、津軽左馬頭建廣室、

 

私観

爲信が独立を考えたのは、絶大な南部氏の勢力が南部晴政の死去で情勢が変わってしまい、分家から南部家総領の後継争いが始まったと言われている。
爲信支持の分家は相手に負けてしまい、本家と和睦するより一層のこと反旗を翻して独立してやろうと思ったようだ。

それがまんまとはまり、北の果てではあるが津軽地方を手にする事が出来たようだ。
後は政治力の判断の良さか中央にすばやく通じて、近世大名の仲間入りし、彼の末裔は明治に至って華族となり、果ては昭和天皇皇子常陸宮様の妃に華子様を送出すまでになった。

これも一重に爲信の機転の効いた動きの賜と思われる。

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本家と和睦するより一層のこと反旗を翻して独立してやろうと思ったようだ。