佐竹義宣

佐竹義宣

戦国時代から江戸時代前期の武将で54万5760石餘を領する大名です。
佐竹氏19代目の当主。

久保田藩(秋田藩)の初代藩主で、伊達政宗は母方の従兄弟にあたるようです。
義宣は、天正17年(1589年)11月28日秀吉から、小田原征伐への出陣命令を受けていたが、南郷において伊達政宗と対峙している最中であり、直ちに命令に従うことは出来なかった。

秀吉自らが京を出立したという知らせを受けた義宣は、宇都宮国綱に対応を相談した上で、天正18年(1590年)5月、宇都宮国綱ら与力大名を含めた1万余の軍勢を率いて小田原へ向かった。
北条方の城を落としつつ小田原へ進軍した義宣は、天正18年(1590年)5月27日に、秀吉に謁見する事が出来て臣下の礼をとれた。

伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽について秀吉から知行を認められ、本領の常陸國、下野國の一部35万石を安堵された。
これにより、佐竹氏は徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並んで豊臣政権の六大将と呼ばれたという。

文禄3年(1594年)に実施された太閤検地の結果、翌文禄4年に佐竹氏領国に54万5,765石という新たな石高が設定され、下記の知行割がなされた。
その所領の内訳は 常陸國久慈、筑波、多賀、茨城、鹿嶋、行方、新治、真壁、信太、河内の十郡、陸奥國南郷、下野國武茂、松野、茂木など49万7760石餘、そのほか常陸國江戸崎領4万8000石合わせて54万5760石餘が安堵されたのでした。

関が原の合戦には西軍に味方により、慶長7年(1602)出羽國秋田二十万石へ転封となり、寛永15年69歳で死去しました。

 

時代
安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕
元亀元年7月16日
死没
寛永10年1月25日
幼名
徳寿丸
別名
次郎、常陸侍従(通称)
法名
浄光院殿傑堂天英大禪定門
官位
従四位上、左近衛中将、右京大夫
出羽国久保田藩主
佐竹常陸介義重、
伊達左京大夫晴宗の娘
兄弟
左中将義宣、蘆名主計頭義広、女子(江戸実通室、のち高倉大納言永慶室)、岩城忠次郎貞隆、多賀谷但馬守宣家、東義堅、北彦次郎義継、中津瀬右近從重、彦次郎義直
正室
那須修理大夫資胤の娘(正洞院)(死別)
継室
多賀谷修理大夫重経の娘(大寿院)
側室
岩瀬御台(蘆名盛興の娘)
子供
養子彦次郎義直(末の弟になる)、養子左少将義隆(弟岩城忠次郎貞隆の嫡男)

 

私観

佐竹氏は本来常陸國が本管ですが、徳川時代から秋田が拠点となり、秋田の地方では佐竹の殿様として親しまれたようです。
明治以降も華族に属し、宗家が侯爵としてまた分家は子爵、男爵家を排出して、名実ともに名家の家系となっています。

佐竹義宣関連歴史人物

佐竹義宣
徳川時代から秋田が拠点となり、秋田の地方では佐竹の殿様として親しまれたようです。