今川義元

今川義元

初は富士善徳寺の僧侶であったが、兄氏輝が死去し嗣子が無く、還俗して家督を継いだ。
織田信秀が天文9年(1540年)に三河國(愛知県東部)に侵攻を開始し、今川軍は三河国の諸侯軍と連合して天文11年(1542年)に織田軍と一大決戦に臨むが、その猛攻の前に敗れたとされ、第一次小豆坂の戦いと言い、後世の創作ではとも言われている。寛政の記事には天文11年に松平廣忠の援軍により織田勢を小豆坂で破ったとされている。
廣忠の帰順を受け、嫡男・竹千代(後の徳川家康)を人質に迎え入れる約束を交わす等、織田家に押されてはいたが三河勢の従属化を進めいた。この時護送を請け負った三河田原城(愛知県田原市)の國人領主の戸田康光が裏切って護送中の竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまうという事件が起こった。これは前年に義元が戸田氏の一族である戸田宣成、戸田吉光の一族を滅ぼした爲に、康光が反乱を起こしたのであった。
天文18年(1549年)松平廣忠が死去すると義元は、事実上松平家の所領を支配し、織田家より竹千代を奪還している。天文20年(1551年)に織田信秀が死去するとこれを機に尾張への攻勢を一段と加速させた。
永禄3年(1560年)5月には那古野城を目指し駿・遠・三2万余の軍を率いて尾張國への侵攻を開始した。織田方に身動きを封じられていた大高城(現在の名古屋市緑区大高)を救う爲に、大高周辺の織田方諸砦を松平元康などに落とさせる。
幸先良く前哨戦に勝利した報せを受けて沓掛城で待機していた本隊を大高城に移動させる。
ところがその途上、桶狭間(おけはざま)山で休息中に織田信長の攻撃を受け松井宗信らと共に奮戦するも、織田家家臣・毛利良勝に愛刀・左文字の太刀ともども首級を奪われた。

時代
戦国時代
生誕
永正16年(1519年)
死没
永禄3年( 1560年)5月19日
幼名
芳菊丸
別名
氏元
法名
秀峯哲公天澤寺
幕府
室町幕府駿河守護職
官位
從四位下 治部大輔
氏族
清和源氏義家流 足利支流 今川氏
今川上総介氏親
寿桂尼 (中御門大納言宣胤の娘)
兄弟
五郎氏輝、彦五郎、玄廣惠探、象耳泉奘、治部大輔義元、氏豊、瑞渓院(北條左京大夫氏康室)、松平親善妻、中御門宣綱室 、瀬名右衛門佐氏俊妻、関口刑部少輔氏廣妻
正室
定恵院(武田陸奥守信虎の娘)
子供
刑部大輔氏眞、一月長得(市谷萬昌院開祖)、嶺松院(武田太郎義信室)、隆福院、牟禮壱岐守勝重室

 

私観

義元と聞くとやはり桶狭間を思い出しますね〜公暁気取りで奢っていた姿を想像させる人物として世間では知れているようです。和歌では冷泉爲和の直接指導を受けていたが、レベルは低いようです。やはり世間一般の言う貴族趣味に溺れた人物なんでしょうか?

今川義元関連歴史人物

今川義元
やはり世間一般の言う貴族趣味に溺れた人物なんでしょうか?