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      <title><![CDATA[武将鬚]]></title>
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      <description><![CDATA[武将鬚へようこそ！歴史上の人物を地図で探せるサイトです]]></description>
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         <title>東照宮御實紀(天文十六年)</title>
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         <description><![CDATA[天文十六年正月頃卿御病悩になられていらしゃったので、御名代として信孝を今川の元へ歳首の御使いに赴かせ、その跡において信孝の三木の領地を没入したそうだ。信孝が歸って大いに驚き、吾翼立の功があって罪は無い、何故にこのように所領を没入されるのだ。これはきっと吾を憎いと思う大蔵等の讒訴「ざんそ＝人を陥れるために悪く告げ口をすること。また、かげぐち。」の致す處であると言って、様々陳謝するのだが、これを取次者もいない事から、終に憤りに絶える事が出来ずに、これも織田方に内応の志を抱いたのであった。
織田信秀侵三河
此ほど道閲入道殿も亡くなられていらっしゃるので、織田信秀歓び大方ではない。今は三州を侵掠する事は心やすいと先ず安祥を責め落とし、其子三郎五郎信廣を込め置き、浅理筒針に砦を構え、上和田に三左衛門忠倫、上野に酒井将監忠尚を置いて椅角の勢を張れば、もとの信定の子内膳清定、山中の權兵衛等もこれに応じ、岡崎は孤城となって甚だ危うし、國中は大いに乱れて明けても暮れても互の争戦止む事がなかった。この時筧平三郎重忠は岡崎の御家人であるが、偽って忠倫に降参し、親しみよって忠倫を刺し殺す。今度は反逆の首長忠倫が討たれ事から、岡崎方は大いに歓び、織田方は援助を失って、信秀は大いに怒り、であるならと自ら大軍を率いて三州に出陣し、岡崎を攻め抜こうと、用意する様子が聞かれる事から、岡崎にも是を防ごうとするが、衆雇敵が出来ずに、今川の元へ援兵を請う。義元が聞いて人質を請う為に、竹千代君僅か六歳になられていらっしゃるのを、駿州に質子になる事と定められて、石川與七郎數正、天野三之助康景、上田萬五郎元次入道慶宗、金田與三右衛門正房、松平與市忠正、平岩七之助親吉、榊原平七郎忠正、江原孫三郎利全等全て廿八人、雑兵五十餘人、阿部甚五郎正宣の子徳千代（伊豫守正勝である）六歳になるを遊びの友として、御輿に同じように乗せられて遣わされる。
戸田康光送家康于尾張
ここに田原の戸田弾正少弼康光は廣忠卿の今の北方の御父であるが、此御親戚をもって、陸地は敵が多い。船によって我領地から送り申し上げると約束し、西郡から吉田へ入れられるところを、康光は其子五郎政直と心を合わせて、御共の人々を偽り謀り、船に乗せて尾州熱田に送り、織田信秀に渡したところ、信秀悦び大方ではない。熱田の加藤図書順盛の元へ預け置たのだ。こうして信秀から岡崎へ使いを立て、幼息竹千代は我膝下に預り置いた。今にいたっては今川の與國を離れ、我のほうに降参するほうが良い。もし又その事が適わない時には、幼息の一命を頂戴する事になると申し送った。卿はその使いに対面なさって、愚息の事は織田方へ質子に送るのではない、今川へ質子としたのだから、不義の婚姻のつき合いを忘れ、中途で奪い取って尾州に送る所である。廣忠は一子の愛に引かれ、義元と多年の奮好を代変える事があってはならない。愚息の一命は、霜臺の思慮に任せる方が良いと返答なさったので、信秀も流石に卿の義心に感じたであろうか。
織田信秀幽家康於萬松寺
竹千代君の命を奪おうともせず、名古屋萬松寺天王坊に押し込め置いて、勤番も厳しく付け置いたと言うことだ。
今川義元も卿の義心に感じ、それならば援兵を遣わすようにと、遠江並びに東三河の勢を差し向け、三州小豆坂において織田勢と合戦し、織田方終に引き返す。蔵人信孝が織田方に内通すると雖も、三左衛門忠倫が討たれた後は、同志の輩が衰落するのを憤り、自ら大明寺村に打って出て敢無く討たれ、權兵衛重弘も山中城から落ち失せたところ、織田方にはいよいよ大軍を起し、岡崎へ乱入しようとすれば岡崎も防戦の用意を専らにすると言っても、織田方は大軍岡崎は小勢であるから、どんなに計らおうとも上下は心を悩ます。
其上廣忠卿には去年以来御心地例ならぬようでいっらしゃるが、日増しに重くなられ、
天文十八年三月廣忠卒葬于大樹寺
天文十八年三月六日廿四歳で御亡くなられになる。まだ三十歳にも満ちてもいないのに予期せぬ出来事であったので、一門御家人等嘆き悲しまぬ者はいなかった。やがて大樹寺納め進めらす。
松應寺建立
（大樹寺大林寺松應寺奮記を合わせ考えると、この時織田方は岡崎を攻め滅ぼそうとする事が急であって、再び、今川へ加勢を請うている最中、廣忠卿逝去していらっしゃる事から、御家人等はこの事が織田方へ聞こえてしまうことを恐れ、其頃深く御帰依している法蔵教翁和尚と内話して、岡崎の大林寺において後の法要をして、能見の原に内葬して後、今川へも其旨を告げ送り大樹寺において葬禮行い、年を経て後能見の原御密葬の地にも一字を造営あり、松應寺が是であると言う）慈光院と謚する。又瑞雲院殿とも申し、慶長十六年大一統の後になって大納言を贈られ、大樹寺殿と號された。]]></description>
         <pubDate>Wed, 24 Sep 2008 14:18:26 +0900</pubDate>
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         <title>東照宮御實紀(天文十三年)</title>
         <link>http://busyouhige.net/?eid=60</link>
         <description><![CDATA[天文十三年
これは竹千代君三つの御歳の事である。
廣忠離別夫人水野氏
御母子の御別れを惜しみなられる御心の内はさぞかし寂しかっただろう。さてその日になれば、金田、阿倍など言える御家人等を添えられて、北方を御輿の載せて刈屋へ送り遣わされる。北方が途中において送りの人々におっしゃるには、わが兄下野殿は極めて短慮の人である。汝等が我を送りに来たと聞いたならば、定めて憤って一々切り捨てられるのでは、又は髪を剃って追放し辱かしめるか、二の外には出ないはず、左もない事にはわらはだけ縁盡きて兄のもとへ帰されるとも、竹千代を岡崎に留め置けば、岡崎のものを他人とは思わず、そのうえ下野殿と竹千代とは叔父甥の中であるのだから、終には和睦する事だ。下野殿が今汝等を誅してしまう事に於いては、後に和睦の妨げとなるであろう。速やかにわらはを捨てて歸るようにと言って、どんなに申しても聞き入れてはくれないものだから、御送りの輩もしかたがなく、その所の民どもに御輿を渡し、御暇を申したが、猶も心配で、片山林の陰に身を潜めて様子を伺って居たところ、果たして刈屋より混申ニ三十人出て来た。御送りの者悉く討ち捨てよと下野殿の仰せ受けて来て居るので、御送りの岡崎の士等は何処にいるのかと訝る。北方が御輿の中から彼等を招いて、岡崎のものどもは早くにわらはを捨てて歸ってしまい、今頃は早岡崎に至って居るであろう。追いかけても追いつかないであろうと仰せられたので、刈屋のものどもも力なく御輿を守護して刈屋へ帰った。この北方の姉君は形原紀伊守家廣の妻になるが、家廣も廣忠卿が既に北方を御離婚した事から、我又水野の縁に繋がってはならないと言って、その妻も刈屋に送り歸した事に、信元が大いに怒って、送りの者を一人残さず斬って捨てた。ここに居て後までも、廣忠卿の北方は女ながらも、海道一の弓取と呼ばれた名将の母君でいらっしゃって、はなはだしく御思慮だなあと、世の中にも聞き伝えて感歎しない者はいなかった。
廣忠男女
廣忠卿の御子は竹千代君の外に男子君一人、女君三人いらっしゃった。御男子は家元、後に康元、生涯足萎えて世に出て人にも交わる事はなかった。後に正光院と生活を共にした。女君は多劫姫と申し、櫻井の松平與一忠政に嫁せられ、後にその弟與一郎忠吉に合わせなさり、其後また保科弾正忠光に降嫁せられる（藩翰譜に、正光に降嫁あるとし、烈祖の御妹は、傳通院殿、久光のもとにおいて設けなさる所と言うは誤りである）その次は市場殿と言って、荒川甲斐守頼持（又義虎）に嫁しなさり、後に筒井紀伊守政行の嫁ぎなさる。その次矢田姫と申し、長澤の源七郎康忠に嫁しなさった。
廣忠卿にはこの後、田原の城主戸田弾正少弼康光の女を迎えなさったが、この御腹には御子はお出来にならなかった。福釜の甚三郎信乗の子兵庫の頭親良よ言えるも、桑谷の右京大夫忠政と言えるも、内藤豊前守信成と言えるも、實はこの卿の御子であるとも伝えられている。
天文十四年岩松八彌傷廣忠
十四年彌生の頃御家人岩松八彌何の理由もなく、御閑居の御傍らによって御股を一刀突き申し上げて門外へ逃出した。（隣國より頼まれて刺客となったと言う）御傍らの者ども驚き慌てて追いかける。卿も刀を取られなさり、逃すものかと追い出しなさったが、御股の疵が痛まれるので追いつく事が出来なかった。
植村新六郎誅岩松八彌
此時も植村新六郎が外のほうから来ていながら、思わず八彌と行合いそのまま押し捕らえ、共に空堀りの中に落ち入り、終に組敷って八彌を伐果す。この植村先に清康君御事のあった時は阿倍彌七を即座に伐止め、今度はまた八彌をも其座を去る事無く首を取り、二代の主君の御仇を即座に誅した冥加の武士と、感じ羨まない者はいなかった。
内膳信孝恣威權老臣猜忌
このほど織田信秀は尾州より三河を併呑しようと頻りに謀を巡らす事に、三州においても上和田城主三左衛門忠倫、上野の城主酒井将監忠尚等をはじめ、これに内応する徒も少なくはなかった。ここに又蔵人信孝は廣忠卿を翼立させた功により、その<em>威權</em>「いけん＝相手にこちらの意思を押しつけて従わせる力。威力と権力。」肩に並ぶ者がない事から、<em>縦恣</em>「ほしいまま」の振る舞いが多い事を、大蔵定吉はじめ老臣共予ねてから親密とは言えず互いに<em>猜忌</em>「さいき＝ねたみきらうこと」し、信孝が<em>驕逸</em>「きょういつ＝おごりたかぶって勝手な行動をする・こと（さま）。」そのままに捨ておかれれば、昔の内膳信定を再び生かせる如くなってしまうと、折々に廣忠卿を諌めたのである。]]></description>
         <pubDate>Tue, 23 Sep 2008 17:07:15 +0900</pubDate>
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         <title>東照宮御實紀(天文十一年十二月家康生)</title>
         <link>http://busyouhige.net/?eid=59</link>
         <description><![CDATA[天文十一年十二月家康生
天文十一年十二月廿六日此御腹に若君が安らかにお生まれになられた。これぞ天下無疆の大統を広げることとなる當家の烈祖東照宮のことでいらっしゃる。その事の奇瑞様々世に伝わる事が多い（北方鳳来寺峰の薬師に御祈願があって、七日満願の夜薬師十二神将の寅神をられると見られる事から、身重くなられるなど、日光山の御縁起にも記されている事も多い）石川安藝守清兼<em>蟇目</em>を為し、「蟇目の儀＝蟇目の儀(ひきめのぎ)には誕生蟇目、屋越(やごし)の蟇目と祓の蟇目があります。蟇目とは矢の先に付けた蟇目鏑の事で木を挽いて削るので引目と言い、またはその形が蛙(蟇蛙)に似たところから蟇目とも言われています。風を切り、音を発しそれによって魔障を退散させるのです。
屋越の蟇目は病魔退散や魔障退散の儀式であり、八幡太郎義家、源三位頼、政また、加賀美次郎遠光が紫宸殿の魔障退散を行ったことで有名です。
誕生蟇目は懐胎５ケ月目の１５日の『帯の祝』『出産』に際して、射手を定め蟇目を行い、胎児の健康なる成長を祈り行なわれたものです。畳の裏と天井の裏は最も汚れた魔障の巣とされていたところから、畳を裏返して横に立て、白地の扇を７間開いて折紙と共に畳に挟みます。射手、矢拾は大切な役で、徳川家綱将軍誕生の折りは、射手は酒井雅楽頭忠清、矢拾は舎弟日向守忠能というように記録として残されています。『吾妻鏡』にも北条政子が源実朝を出産した折りに蟇目が行われたことが記されています。射手等の所作については厳格な規矩があり、足の踏みかた一つにも七歩の返閇等厳粛に行なわれます。
拔の蟇目は祈祷の時の「よ蟇目」とも呼ばれ、『平家物語』の中にも度々記述がなされています。
現在は大的式、百々手式の時に行われておりますが、下賀茂神社では、葵祭りの前儀として勅使の通られる楼門を祓う「屋越の蟇目」が行われ、住吉大社では全国弓道大会が無事終了することを願う「祓いの蟇目」が行われています。」酒井雅樂助正親胞刀
を差し上げる。
家康幼名竹千代
御七夜に竹千代君と御名を付けられる。
ここに御母北方の御父水野忠政卒して後、その子下野守信元は今川方を背き、織田方に与された。廣忠卿お聞きなされて、吾は今川の與國である事は人も皆知っている所である。であるから今織田方に内通する信元の縁に結ぶべきではないと言って、北方を水野の家に送り返すと定められた。]]></description>
         <pubDate>Mon, 22 Sep 2008 17:01:00 +0900</pubDate>
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         <title>東照宮御實紀(廣忠卿)</title>
         <link>http://busyouhige.net/?eid=58</link>
         <description><![CDATA[廣忠卿
清康君はじめには昌安入道の息女（春姫と申した）を迎え、北方と定められたが、琴瑟の和しなさらない故があって、中が睦ましくは無かった。後近郷の郷士青木筑後守貞景の女をもって北方となさる。此腹に贈大納言廣忠卿を生まれさせなさる。是は東照宮の御父である。
此北方は御産後にすみやかに亡くなられたが、又三州刈屋の水野右衛門大夫忠政の離婚し、大河内左衛門尉元綱の女を娶りなさる。これは尾州宮の城主岡本善七郎秀成に謀り合わせられ、迎えとらせなさったと言うことだ。（世にはこの大河内氏を水野忠政の寡婦と記したものが多い。清康君逝去は天文四年十二月五日、忠政の死は同十二年七月十二日である、清康君に遅れる事九年にして死んだことになり、忠政の未亡人ではない事は明らかである。玉與志には忠政の離別の婦と有りこれをもって實とする。今はこれに従う）
こうして御家人等深く御喪を秘して岡崎に立ち歸り其果ては菅生の丸山において烟となられられる。御骨は大樹寺に納め、善徳院殿と謚り申し上げる。（大樹寺の記に次のようにある。随念寺記に菅生丸山に御火葬して、其地に御塚があることから、烈祖永禄四年随念寺をその地に造営されたと見られ、又大林寺の記には、はじめ北方春姫、御離婚の後も貞操を守り二度と他へ稼さなかった。清康君御事あった後、御骨をその香火院なればと言って大林寺に葬った事から、今も御夫婦の御墓は大林寺に存在するよしを記す。今思うに御茶毘の後御分骨があって、三ヶ所に葬ったものである。）この君時に廿五歳、あれほど軍謀武略世に優れ、才知に長けていらっしゃる事を、惜しんでもみてもなおあまりある御事である。
三河においては祖父の入道をはじめお聞きなられて驚き、上下ただ火を消すように驚歎して、ものも言う事が出来ずに泣き沈むも当然のことである。森山から歸ってきた御家人等、かの大蔵の事を入道に申して御下知を乞うと、入道が泣く泣く仰せられるには、彌七の大罪全くもって狂気のいたすところで有るが、父の大蔵は罪にはならない。大蔵は奮を変わらず忠勤を尽くすようにと仰せられたならば、定吉は蘇生をしたかのように、深くその恩を感じられたようだ。そうこうしているうちにその事をどのようにしようかと言って、
廣忠
廣忠卿その頃は未だ、仙千代と言って幼くていらっしゃるを主とされ、御家人夫々大切にお世話し御成長を待った。この卿は大永六年四月廿九日にお生まれなられ、今年は僅かに十歳になられられる。御弟二人、御妹一人いらっしゃる。その一人は源次郎信康、その次は釋門に入って、後に大樹寺の住職となり、成譽と號する。御妹ははじめ、長澤の松平上野介康高の妻となり、後に酒井左衛門尉忠次の妻となる。
天文五年
さて天文五年二月のはじめ、織田信秀は清康君の御事を聞き、今は岡崎も空虚になっているはず、西三河を併呑するならこの時にありと、八千の人數をもって三河に發向させた。岡崎方は小さい勢力であっても、さすが故君の御居城を敵の馬蹄に駆ける事は口惜しいと、宗徒の輩は血を吸って誓をする。井田郷において敵を迎えて決戦をし、思いのほかに切り勝って織田勢は大いに敗走する。ではあるが味方にも、林、植村、高力等と言える究竟の輩（ともがら）四十人餘が戦没する。
内膳正信正専政務
かの内膳信正は清康君の御時より叛心を抱き、織田方に内通したそうだが、清康御事あった後、また姦計を巡らし、老父の入道へ頻りに媚び諂って、今は幼君の後見となって、岡崎の政務を専らにし、何事も思うままに振舞う事から、御家人等も仕方なく、今は信定を尊敬する事主のように、敢えてその命に背く者はいない。阿部定吉は信定が目覚しい振る舞いの多のを見て、
廣忠流浪于諸國
こうしていては幼君の御為終に悪くなってしまうのではと、密に仙千代君を伴ない岡崎を逐電する。ここに伊勢神戸城主の東條右兵衛督持廣は清康君も御妹聟である事から、定吉は幼主を持廣に頼み、暫く神戸に忍び居った。持廣夫婦は仙千代君を我子のように労り、ここにおいて首服（元服）を加え、自分の一字を与えて、二郎三郎廣忠君と言って名乗らせた。けれども持廣はまもなく病没し、其子上野介義安は父の志に背き織田方に内通し、廣忠卿を生け捕って織田方へ人質しようとしているとの噂を耳にしたところ、定吉は大いに驚き、また廣忠卿を伴ない神戸を逃げ出て、遠州懸塚の鍛治の家に暫く忍ばせ申し上げ、その身は駿河に行って今川治部大輔義元を頼み、廣忠卿御歸國の事を請う。義元以前から近國を併呑し終には中國に旗を立てようとする素志である事から、速やかに定吉が請う事を許された。定吉の弟四郎兵衛忠次も、兄と志を同じくして遠近を駆け巡り、岡崎の御家人等を潜に進めて心を盡したのだ。御叔父蔵人信孝、十郎康孝、その外林、大原、成瀬、八國、大久保黨等がこれに応じ、若君が當家の正統でいらっしゃる事から、國に迎え申し上げる事を議し合い、今川義元は廣忠卿を歸國させ、岡崎をはじめ三州一圓、自分の旗下に属させようとの下心である事から、東三河與力の士を駆り催して、先ず廣忠卿を三州牟呂の城に入れなさり、廣忠卿に倍從している御家人等を先鋒とし、織田旗下に属してる東條の城主吉良左兵衛佐義郷を攻めさせ義郷も討死す、信定はこれを聞いて驚き、若君を國に入れさせぬと様々心構えしたけれど、譜第の御家人一致して、
天文六年五月迎廣忠于岡崎
天文六年五月朔日終に、岡崎に迎え申し上げる。（この時軍功の輩として賜った御感状が今林肥後守忠英の家に存する）信定も今は力至らなく、又老父入道を頼って廣忠卿へ降参し、程なくして病没した。この後岡崎には蔵人信孝、十郎三郎康孝両叔父を後見人とし、大蔵定吉等思うままに軍國の事を執り行う。
清康君後の北方（華陽院殿御事である）未だ水野忠政の元にいらっしゃる頃設けられた御女がいた（傳通院殿御事である）定吉ははじめ酒井、石川等のおとなどもの計らいによってこの御女を迎え取り、廣忠卿の北方と為し申し上げる。]]></description>
         <pubDate>Wed, 27 Aug 2008 17:57:06 +0900</pubDate>
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         <title>東照宮御實紀(清康嗣家督)</title>
         <link>http://busyouhige.net/?eid=57</link>
         <description><![CDATA[清康嗣家督
その太郎清康君、これ東照宮の御祖父でいらっしゃる。永正八年九月七日御誕生、大永三年四月四日十三歳にして世を継がられる。幼い頃より武勇贍略で並ぶものが居なかった。萬にすばらしくいらっしゃり、御内外の同族も、この君の成長が増せば、終に中國に旗挙げするであろうと末頼もしく思い、靡き従う事父祖にも超え、信忠の御時に離散いたしたものどもが、再び来て旗下に属する輩少なからず。
安祥三郎殿
岡崎並びに山中の両城主松平弾正左衛門信貞入道昌安は、信忠の時より叛いて自立の威を奮う事から、清康君十四歳にてこれを攻めようと言って、元老大久保左衛門五郎忠茂入道源秀の謀を用いなさって、難なく山中城を攻め抜かれ、其猛威に乗じて終に岡崎を攻められたので、昌安入道は敵にはしたくないと思い、自分の最愛の女子をもって、清康君を聟とし城を差し出すと言って和を乞いされたので、これを許して、その女を迎えて北の方となされ、岡崎の城を受け取って御身は猶安祥にいらっしゃった。（岡崎城ははじめ泰親が築いた城であるが、信光の時五男紀伊守光重に譲られ、昌安入道までここ居たが、この時再びこの城を本家に歸させた。）世間では安祥の三郎殿と稱し、その武威を恐れられる。
清康攻東三河
亨禄二年五月の頃西三河は皆御手に属し事から、是より東三河を打ち従え三州を一統しようとの御志によって、牧野傳蔵信成の吉田の城を乗っ取ろうと、安祥を打ち立ちなさる。信成は終にかけ負けて、兄弟をはじめ主従悉く討死する。こうして清康君は直ちに吉田川の上の瀬を押し渡し、吉田の城に攻め寄せられる。城兵は一防にも及ばず落ち行ったので、清康君はその城に入って人馬の息を休め、一両日の後田原の城に押寄せられる。城主戸田弾正少弼憲光は大いに恐れ、これも忽ち降参する。本田縫殿助正忠は自分の伊奈の城に迎えて酒を勧め申し上げる。
清康君は此勢いに乗じて、近邊の城々に押寄せ押寄せ攻め抜き続ける。破竹の如き勢いに辟易して、牛久保の牧野新次郎貞成、設楽の設楽神三郎貞重、西郷の西郷新太郎信貞、二連木の戸田丹波守宜光、田峰野田の菅沼新八郎定則、其の外山家、三方、築手、長間、西郡の輩風を望んで歸降する。
亨禄二年尾張の織田備後守信秀が抱えている岩崎、野呂（一に科野）を攻め抜き、同じく三年に熊谷備中守直盛の宇野の城を陥れられる。
天文二年
天文二年廣瀬の三宅、寺部の鈴木等と戦って敵は皆敗走し、その冬信州の大軍を追い払らわれる。これを聞いて武田大膳大夫信虎の使者を進めらせ、隣の好みを結ぶ。この猛威に恐怖して、織田信秀の弟孫三郎信光、美濃の國士數十人を説得して味方に入れ、清康君へ志を運び、もし尾州へ御出勢がある時には先鋒になる事を請う。
清康君は前から望むところで幸であると、一萬餘の軍勢をもって、
天文四年
天文四年十二月尾州へ發向しようと、先ず森山へ着陣されれば、美濃の國士共皆ここに参り、贄をとって拝謁し、やがて信秀を清洲より引き出そうと、謀りを巡らし近郷を放火される。ところが叔父の内膳正信定は最初から腹黒い者であるから、いつしか志を変えて織田方に内通し、安祥の虚を伺い、本家を奪おうと姦計を巡らしているとの噂を聞いて、清康君も酒井、大久保等の奮臣等の諌めに従って、先ず軍を返すように定めた。
森山崩
その頃阿部大蔵定吉と言える、御家に年配の者がいたが、この者が織田に内通するとの流説が陣中に紛々していた。定吉は大いに驚き、其子の彌七を近に寄せて言った。我は不幸にしてこのような飛語を受ける事は死んでもまだ猶恨みである。我がもし不慮に誅を蒙ったても、汝はどのようにしても世を永らえ、父の寃すすぐ様にと泣く泣く庭訓された。
その翌五日の朝陣中に馬を取り放ち以ての外の騒動となる。
清康君はこれを制されようと外の方に立ち出でられ、木戸を閉めよ取り逃がすなと指揮なされる御聲を聞いて、かの彌七は父大蔵ただいま誅される事と思い込んでしまった。
阿部彌七弑清康
清康君の立っていらっしゃる御後に走り寄って、御肩先より左の脇をかけ、ただ一刀に切り付けた。鬼神を欺く英傑もあえなく打たれ倒れられる。
そこらにつどい集まるものどもも、ただあきれ果てるより他はなかった。扈從に植村新六郎と言って十六歳の若者、御刀を取って御傍らに控えていると、其御刀の鞘をはずし、躊躇いなく彌七を切り伏せる。衆人この時に至って、かの大蔵を捕らえ糾問すると、定吉はあった事を隠さずに物語り、吾においてはたとえ冤罪をもって誅を蒙っても、君に二心を抱いてはならない、しかしながら愚昧の彌七が君を弑する大逆無道、その父の定吉はこうして有ってはならないと言って、首を刎ねるようにと思い切って詞を放ったところ、聽人も流石に定吉を誅するにも及ばず。ともかくも道閲入道殿の御沙汰に任せよう。
敵はまたこの虚に乗じて、追討しようとするは必定である事から、急いで君の御亡骸を守護して、軍をまとめて一時も早く歸國するのが一番と、衆軍俄かに周章狼狽し、鎧の袖を潤しながら引き返す。後の世まで森山崩れと言い傳えしはこの事である。]]></description>
         <pubDate>Tue, 26 Aug 2008 17:42:28 +0900</pubDate>
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         <title>東照宮御實紀(長親却今川氏親軍)</title>
         <link>http://busyouhige.net/?eid=56</link>
         <description><![CDATA[長親却今川氏親軍
この頃今川修理大夫氏親駿遠両國を領し、三河も過半はその旗下しているが、近来西三河は言うまでも無し、東三河の國士どもややもすれば今川を去って長親に従おうする様を見て大いに驚き、其所属北條新九郎入道早雲を将として一萬餘の兵を率いて、永正三年八月廿日庶兄太郎親長が籠もっている岩津の城を攻め囲む。長親これを救おうとして安祥より討って出る。岩津の後詰して早雲の大軍を追い払う。この勢に恐怖して東三河の輩の多くはその旗下に従った。そうではあるが長親は早くから頓世の志があるので、未だ壮の齢にしてかざりをおろし道閲と號し、長子信忠に家を譲り、所領も悉く庶子に分かち授ける。風月を友として連歌を楽しみ、八十餘の壽を保ち、曾孫の廣忠卿の御時まで永らえ、天文十三年八月廿一日終をとられる。大樹寺に葬って掉舟院殿と言われた。信忠家を継いだ後、蔵人また右京と稱された。
子は三人、長子は次郎三郎清康君、
三木松平
二男は蔵人信孝、（三木の松平と言う）
鵜殿松平
三男は十郎三郎康孝、（鵜殿の松平と言う）
信忠は少し心が陥るように成られ、新しく降りた國人どもがだんだんと叛くようにり、譜代の郎党に至まで相応しく無く思う様になってしまい、信忠は其気を察しられ、何事も残り多い齢ながら、僅か十三なったばかりの清康に世を譲り、頭をおろして春夢と號して、大濱の稱名寺に閑居したのだが、四十に一ニ餘ところで、亨禄四年七月廿四日父道閲入道に先立って亡くなられたので、これも大樹寺に葬り安栖院殿と贈った。

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1/4 名将鎧兜　織田信長</a>
希代の鎧兜を1/4スケールでモデル化した『甲冑シリーズ』です。
]]></description>
         <pubDate>Wed, 30 Jul 2008 17:44:25 +0900</pubDate>
         <guid>http://busyouhige.net/?eid=56</guid>
      </item>
      
      <item>
         <title>東照宮御實紀(和泉守信光)2</title>
         <link>http://busyouhige.net/?eid=55</link>
         <description><![CDATA[この時畠山加賀守某が安祥の城を攻め抜かれ、其所々攻め取って三河國三分の一を領する。（蜷川親元記に松平和泉入道と見られるのは信光の事であり、かの書に入道によって三州の反徒を征して足利家の奉書を載せる。）岩津の信光明寺を営み、卒して後ここに葬り、崇岳院殿と謚する。
二男親忠がその跡を継がれる。子は九人、太郎親長は岩津を領して、
大給松平
ニ男源次郎乗元（後加賀守）大給領する。（大給の松平と言う。和泉守乗完等の祖）
出雲守長親
三男次郎長親をもって家督と定められる。四男彌八郎親房（後玄番助）五男釋氏に歸し、超誉と號して知恩院の住職である。
西福釜松平
六男刑部丞親光（西福釜の松平と言う。）七男左馬助長家（安祥と稱する。）八男右京亮張忠、
瀧脇松平
九男加賀右衛門乗清（瀧脇の松平と言う。監物乗道、丹後守信徳等の祖）
明応二年十月頃三河國上野城主阿部孫次郎、寺部城主鈴木日向守、挙母城主中條出羽守、伊保城主三宅加賀守、八草の城主那須宗左衛門などと言える輩、謀りを合わせて岩津の城を攻めようとして押寄せたので、親忠一門は家兵を引率して井田の郷に出張し、僅かに百四十餘の兵をもって三千に余る寄せ手を散々に追い散らし、敵の首五十餘級を討取る。この後は西三河の國人大半は歸降し、勢厳しく聞こえてたのだ。この合戦に討死した敵味方の遺骸を埋めて、額田郡鴨田と言われる地に大樹寺を創建される。後に家を三子長親に譲り入道して西忠と號する。卒去の後大樹寺葬り松安院殿と贈り名される。（大樹寺を香火院とされる事はここに起こる。）長親譲りを受けて出雲守と稱し安祥に住された。子は五人、蔵人信忠
長子を次郎三郎信忠、
福釜松平
二男右京亮親盛（福釜の松平と言う）
櫻井松平
三男内膳正信定（櫻井の松平と言う。遠江守忠吉の祖）
東條松平
四男甚太郎義春（東條の松平と言う）
藤井松平
五男彦四郎利長（藤井の松平と言う。伊賀守忠優、山城守信寳等の祖）長親また慈愛深く武勇も卓絶であるから、衆良く靡き従う。

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<a href="http://http://busyou.cart.fc2.com/ca19/1/p-r-s/" target="_blank">徳川家康</a>
希代の鎧兜を1/4スケールでモデル化した『甲冑シリーズ』です。
]]></description>
         <pubDate>Sat, 26 Jul 2008 15:09:41 +0900</pubDate>
         <guid>http://busyouhige.net/?eid=55</guid>
      </item>
      
      <item>
         <title>東照宮御實紀(和泉守信光)</title>
         <link>http://busyouhige.net/?eid=54</link>
         <description><![CDATA[和泉守信光
泰親の子六人、長子信廣に松平郷を譲り、松平太郎左衛門と稱する。（今三河の郷士松平太郎左衛門の祖である）ニ男は和泉守信光、殊更豪勇である事から嗣子と定められる。三男は遠江守益親、四男は出雲守家久、五男は筑前守家弘、六男は備中守久親とする。
泰親の卒去があって、これも高月院に葬り、良祥院殿と謚される。信光は家を継いで岩津、岡崎の両城主となった。この人螽斯（キリギリス）の化を得て男女の子四十八人までいらっしゃり、この時からいよいよ其一門は國中に滋萬し、益々近國近郷の威望は有名となり、國人は歸降する者が多くなった。
竹谷松平
先嫡男は左京亮守家（是を竹谷松平と言う。松平哲吉守誠等今其後である）
右京亮親忠
二男は右京亮親忠、是を嗣子とし岩津の城を譲られる。三男光直は釋門に入って安穏寺昌龍と號する。
形原松平
四男佐渡守與副「與嗣カ」（形原の松平と言う。今紀伊守信家の祖）
大草松平
五男紀伊守光重（大草の松平と言う。壱岐守正朝、志摩守重成等この孫であるが、この筋は今は絶えてしまった。）
御油松平
深溝松平
六男八郎左衛門光英、七男彌三郎元芳（御油の松平と言う。深溝の松平と言うのもこの筋である。今図書頭忠命等は御油の統、主殿頭忠候は深溝の統である。）
能見松平
八男次郎右衛門光親（能見の松平と言う。次郎右衛門光福、河内守親良等の祖である。）九男美作守家勝、十男修理亮親正
長澤松平
十一男源七郎親則（長澤の松平と言う。この統は嫡家絶えて今松平伊豆守信祝この筋とする。）このほかは其名詳らかになっていない。

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<a href="http://busyou.cart.fc2.com/ca10/62/p-r9-s/" target="_blank">日本の伝統美シリーズ 陽明門</a>
人工美の極致を集約した日光陽明門]]></description>
         <pubDate>Tue, 22 Jul 2008 16:45:39 +0900</pubDate>
         <guid>http://busyouhige.net/?eid=54</guid>
      </item>
      
      <item>
         <title>東照宮御實紀(太郎左衛門泰親)</title>
         <link>http://busyouhige.net/?eid=53</link>
         <description><![CDATA[太郎左衛門泰親
親氏の子を泰親とする（一説御弟であると言う）その跡を継いでこれも太郎左衛門と稱せられる。父親氏の志を継ぎ、弱きを救い強きを伐して貧に恵み飢えを救う事から、衆人の従い靡く事の有りは変わらなかった。
その頃洞院中納言實煕と言える公卿が、三河國に下り、年月閑居あったことから、（世には實煕三河に左遷された由と傳えられているが、応仁より後は都は争乱の巷となり、公卿の所領は皆武家に押領され、縉紳の徒都に住み侘びて、ゆかり求めて遠國に身を寄せた者は少なくなかった。この卿も三河國には庄園が有ったので、ここに暫く下って年月を送ったほうがよいだろうと）泰親はこの卿のちん倫を憐れみ懇に扶助されて、既に歸洛の時も國人を沢山従えて都まで送ったところ、卿も厚くその恩に感じて、歸京の後公武に請いて、泰親を三河一國の眼代に任じたところ、是より三河守と稱せられた。

泰親任三河守
この時岩津、岡崎の両城を築き、岩津に自ら住して、岡崎にはその子信光を居住させる。

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DX ゴールド 彦根城</a>
金亀山山頂に輝く井伊氏の居城]]></description>
         <pubDate>Sun, 20 Jul 2008 16:41:34 +0900</pubDate>
         <guid>http://busyouhige.net/?eid=53</guid>
      </item>
      
      <item>
         <title>東照宮御實紀(太郎左衛門泰親)</title>
         <link>http://busyouhige.net/?eid=52</link>
         <description><![CDATA[太郎左衛門泰親
親氏の子を泰親とする（一説御弟であると言う）その跡を継いでこれも太郎左衛門と稱せられる。父親氏の志を継ぎ、弱きを救い強きを伐して貧に恵み飢えを救う事から、衆人の従い靡く事の有りは変わらなかった。
その頃洞院中納言實煕と言える公卿が、三河國に下り、年月閑居あったことから、（世には實煕三河に左遷された由と傳えられているが、応仁より後は都は争乱の巷となり、公卿の所領は皆武家に押領され、縉紳の徒都に住み侘びて、ゆかり求めて遠國に身を寄せた者は少なくなかった。この卿も三河國には庄園が有ったので、ここに暫く下って年月を送ったほうがよいだろうと）泰親はこの卿のちん倫を憐れみ懇に扶助されて、既に歸洛の時も國人を沢山従えて都まで送ったところ、卿も厚くその恩に感じて、歸京の後公武に請いて、泰親を三河一國の眼代に任じたところ、是より三河守と稱せられた。

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<a href="http://busyou.cart.fc2.com/ca24/28/p-r22-s/" target="_blank">源 義経</a>
剣豪たちの二刀を1/3スケールでモデル化した『日本の名刀シリーズ』が今度は一刀シリーズで登場です。]]></description>
         <pubDate>Fri, 18 Jul 2008 17:11:50 +0900</pubDate>
         <guid>http://busyouhige.net/?eid=52</guid>
      </item>
      
      <item>
         <title>東照宮御實紀(三郎親氏)</title>
         <link>http://busyouhige.net/?eid=51</link>
         <description><![CDATA[三郎親氏
有親の子を三郎親氏と言う。
新田の庄に潜んで住んでいたが、京鎌倉より新田の黨類を捜索が盛んに行われ、この危難を避けるために、故郷を流離うように出る。（大成記に上杉禪秀の方人とされたための捜索が盛んであるために、父子孫三人は東西に立ち別れ、世を避けて時宗の僧侶となられた由有りとされるが、鎌倉大草紙、底倉記、喜連川譜等によると、小山犬若丸に方人して奥州に下り、新田義睦を大将と守り立とうとしたが、その事を遂行出来ずに、新田、小山、田村等皆散々に行方知らずとある。
今藤澤寺に存在する御願文を合わせ考えると、小山の一乱より捜索が厳しくなる事は疑いなし、波合記に親季は尹良親王の御供によって討死の列に見える。
また親季の御遺骨を有親が首に掛け三河に来られた。稱名寺御寄寓の間に、これを寺内に葬られたと言って、その墳は今も稱名寺に存在する。）
時宗の僧侶となり、山林抖藪のさまを見聞して、父子はあちらこちらに隠れ忍ばられたが、宗門のゆかりにより三河國大濱の稱名寺に寄寓され、ここに浮年月を送られた間に、有親は亡くなられその寺に葬り、後に松樹院殿と諱される
酒井五郎左衛門
又この國酒井村と言えるところに、五郎左衛門と言って頗る富豪のものが居た。
この者が親氏の容貌、骨柄に只者ではないと見て取り、請い迎えて自分の女に合わせ、男子を設ける。
徳太郎忠廣（又小五郎親清とも傳う。これが今の世の酒井の祖であると言う。）と言う。
さて五郎左衛門の女はこの男子を産んだ後程なくして亡くなり、その頃同國松平村に太郎左衛門信重と言って、これも又近國でも有名な富豪である。ただ一人の女子が居たが、どう言う訳か婚嫁を求める者が沢山居たのに認めないで、年月がたってしまった。
今親氏がやもめ暮らしをしているのを見て、其女に合わせて家を譲ろうと請うこと頻りとなった。
親氏稱松平太郎左衛門
親氏は以前から太志を持れていて、かの酒井村にて設けた忠廣に酒井に家を譲り、其身は信重の懇願に任せて松平村に移り、其女を妻としてその譲りを受けて松平太郎左衛門と名乗られたが、松平酒井両家ともに、極めて家冨財豊であるために、貧しい者には恵を、窮を賑わすをもって務めとされ、近郷の奮家古族は言うに及ばず、少しも豪俊の聞こえある者は子とし、聟とし、縁を結ばれたので、近郷のものどもは君を父の如く親しみ懐かないもの無かった。
親氏はある時親族で知音を会し宴を催しもてなされて後に、吾つらつら世の有様を見ると、元弘、建武に皇統南北に別れてより天下一日も静にならなかった。まして応仁以来長禄、寛正の今に至って、足利将軍家政柄を失った後海内一統に瓦解し、臣は主を殺し子は父を追い出し、人倫の道絶えて、萬民塗炭の苦しみを受ける事今日より甚だしき無い。吾また清和源氏の嫡流新田の正統である。何ぞよく久しく草間に埋もれ伏し、空しく光陰を送らんや。今より志を合わせて約束を固めて近國を伐して靡かせ、民の艱難を救い、武名を後世に残そうと思うがどうだろうか問うと、衆人はもともと父母のように思い親しんでいる事であるから、どうして断るような者が居るであろうか。誰でも一命を投げ打ち、身に叶える勤労を致すだろうと承知されことから、兼ねて慈恵を蒙っている近郷の者ども、招く事に集まって来て、先ず近郷に威を盛んにする者の方へ押寄せて、降参する者たちを味方とし、命に逆らう者は伐して従えさせれば、程なくして岩津、竹谷、大給、御油、深溝、能見、岡崎あたりまでも、大略はその威望に服した。（當家発祥その源はこの時よりと知られている。）卒去有って、松平郷高月院に葬り、芳樹院殿と謚された。

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<a href="http://busyou.cart.fc2.com/ca6/53/p1-r1-s/" target="_blank">DX ゴールド 彦根城</a>
金亀山山頂に輝く井伊氏の居城]]></description>
         <pubDate>Wed, 16 Jul 2008 16:02:32 +0900</pubDate>
         <guid>http://busyouhige.net/?eid=51</guid>
      </item>
      
      <item>
         <title>東照宮御實紀(右京亮政義)</title>
         <link>http://busyouhige.net/?eid=50</link>
         <description><![CDATA[右京亮政義
満義の子は二人、政義、義秋と言う（大系図第十三に載せらているのは、以下のごとし第四には政義を除いて義秋のみ記され、徳川系図、新田松平譜、大成記等に載せられいるのも、前説の如くで今これにしたがう。三家考に満義の子義周、その子に義時、その子政義とする。諸説と大いに異なり、従って今はこれを取らず）
政義は右京亮と言う。（政義のこと家忠日記、大成記にその傳詳細に載せず、波合記と言えるものには、政義南朝の尹良親王｛後醍醐天皇に御孫、宗良親王の御子である｝の御子、■良親王を守護し、三河に伴ない参る途中、波合にて討死されたと見られる。徳川松平の家譜と大同小異である。鎌倉大草紙に永徳の頃新田一門波合にて皆討死したとされ、新田義宗の子相模守義睦の討ちもらされ、後に相州箱根底倉にて尋ね出して討たれたと見られる。底倉記には義睦を脇屋右衛門佐義治の子とし、母は世良田右京亮の女と見ている。又義睦奥州霊山にて旗上げしたとき、上野の世良田大炊助政義、桃井右京亮等を仲間に引入れた由と見られ、ともにこの政義の御事なるは疑いなく見られる。）
修理亮親季
左京亮有親
政義の子を修理亮親季と言う。
親季の子を左京亮有親と言う

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<a href="http://busyou.cart.fc2.com/ca19/33/p-r-s/" target="_blank">加藤清正</a>
鎧兜を1/4スケールでモデル化した『甲冑シリーズ』のグレードアップをした種類です。]]></description>
         <pubDate>Tue, 15 Jul 2008 17:28:34 +0900</pubDate>
         <guid>http://busyouhige.net/?eid=50</guid>
      </item>
      
      <item>
         <title>東照宮御實紀(世良田教氏又稱徳川氏)</title>
         <link>http://busyouhige.net/?eid=49</link>
         <description><![CDATA[世良田教氏又稱徳川氏
二子教氏は世良田次郎とも、又三河次郎とも稱し、又徳川を稱し、後に静眞と號する。（この二世三河守に任じ三河次郎と稱したが、後に三河に龍起される兆候のようで、奇遇である。）
世良田家時
教氏の子を家時とする。世良田又次郎また孫太郎とも稱し、父に先立って亡くなられる。（長楽寺へ父の教氏寄附あったことの文書が見られる）

世良田満義
家時の子を満義とする。
世良田彌次郎また孫四郎とも言う。
新田左中将義貞に属し、南朝へ仕えて、忠勤を励んだが、義貞が討たれた後は、一族と同じく上野國に帰り、新田世良田徳川の間に隠れ住み、後に宗満と號する。
（世間ではこの満義を太平記に載せられた江田三郎光義とする。又教氏の弟三郎有氏の子江田弾正行氏を光義の事であると言う。）

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DX ゴールド 安土城</a>
本能寺の変で灰燼と化した華麗壮大な幻の名城]]></description>
         <pubDate>Mon, 14 Jul 2008 13:50:41 +0900</pubDate>
         <guid>http://busyouhige.net/?eid=49</guid>
      </item>
      
      <item>
         <title>東照宮御實紀(義國,義重,義季)</title>
         <link>http://busyouhige.net/?eid=48</link>
         <description><![CDATA[義國
義家の子は六人、義宗、義親、義國、義忠、義時、義隆と言う。
第三の子義國は、從五位下、帯刀長、加賀介、式部大輔、訳あって都を出て、下野國に下り、足利の別庄に幽居し、薙髪して荒加賀入道と稱した。その子は義重、義康、季邦と言って三人あった。
義重
長子の義重に新田の庄を譲り、次子の義康に足利の庄を譲り分ける。
新田足利の両流に分かれる其本源はここから起った。
義重は幼い頃から、新田におり新田太郎と名乗り、叙爵して大炊助に任じ、後入道して上西と號し、上野國新田郡寺尾の城に住する。
この時都においては平相國浄海入道（平清盛）すでに薨じて、平氏の勢いがやや衰え始めたことにより、諸國の源氏が蜂起することに及んで、義家朝臣の曾孫頼朝が、伊豆國蛭小島より旗上げして、諸國の源氏を募られたので、上西入道は許より自立の志を持っていたので、その招に応じたのだが、鎌倉幕府においては親しまれなかった。しかしながら是は新田一流の祖である事から、はるか年を隔てて、慶長十六年に鎮守府将軍を贈られた。
入道の子は七人、義俊、義兼、義範、義季、経義、義光、義佐と言う
義季
四郎義季は鎌倉幕府に給事し、常に供奉の列に候し、右大将家入洛の時も騎馬の随兵であった。
後に髪を切り捨て新田入道と號し、新田庄世良田の郷徳川の邑に住することになり、其子孫は徳川世良田を稱することになる。
世良田頼氏
義季の子は三人、頼氏、頼有、頼成と言う。
長子の頼氏は、初は世良田孫四郎と言う。
鎌倉将軍頼嗣並びに宗尊親王に仕え結番衆に加えられ、從五位下三河守に叙任する。
世良田長楽寺に寺領寄附の文書が存在する。
頼氏の子は経氏、教氏、有氏とする。（大系図には経氏を江田三郎満氏とする。）

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<a href="http://busyou.cart.fc2.com/ca3/37/p-r1-s/" target="_blank">和歌山城</a>
秀吉の弟秀長が築いた名城]]></description>
         <pubDate>Sun, 13 Jul 2008 13:56:51 +0900</pubDate>
         <guid>http://busyouhige.net/?eid=48</guid>
      </item>
      
      <item>
         <title>東照宮御實紀(六宮權言)</title>
         <link>http://busyouhige.net/?eid=47</link>
         <description><![CDATA[後に神霊を崇められて六宮權言として祭られ、奮邸の地を蘭若として、大通寺遍照心院と號された。
経基王の御子は八人で満仲、満政、満季、満實、満快、満重、満頼と言う。
長子の満仲朝臣は、朱雀、村上、冷泉、圓融、花山、一條の五朝に歴任し、春宮帯刀の長より兵庫右馬允、兵部少輔、春宮亮、治部大輔、左馬權頭、蔵人頭、摂津、越前、伊豫、美濃、武蔵、下野、信濃、陸奥等の守、常陸、上總の介に累進し、正四位上に昇られ、老年の後は多田院を造営し、剃髪して多田新發知（智）満慶と稱する。
満仲の子は六人で、頼光、頼親、源賢、頼信、頼平、頼範と言う。
第四の子の頼信は、一條、三條、後一條、後朱雀、の四朝に仕え、從四位上、伊勢、美濃、河内、甲斐、信濃、相模、下野、伊豫等の守、上野、常陸の介、刑部民部の丞、左衛門尉、兵部治部少輔、皇后宮亮。左馬權頭、冷泉院の判官代、鎮守府将軍に補任し、内の昇殿を許される。
河内國壺井の通法寺を治め、今だに祀典が絶えない。
頼信の子の頼義は河内、伊豆、甲斐、信濃、武蔵、下野、陸奥、出羽、相模、伊豫等の守、常陸上野介を歴任して、左近将監、兵庫允、左衛門尉、民部少輔、左馬頭、小一條院判官代、鎮守府将軍になり、正四位下に叙任し、内院の昇殿を許されるが、鎮守府に赴任すること九年にして、夷族安倍貞任を征討して勲功世に著しい。
頼義の子は三人、義家、義綱、義光と言う。
義家はその初岩清水の寳殿にて元服したことから、八幡太郎と稱して、この人は世々を超えて弓矢の道に優れて、肝も並外れており、東國の武者贄（貢物）を取って御家人と稱するもの少なからず。
正四位下、左衛門尉、左馬頭、左近将監、治部兵部の少輔、武蔵、相模、陸奥、出羽、下野、河内、伊豫等の守を経て鎮守府の将軍であった。
弱冠の昔父頼義に従って奥に下り、九年の苦戦に勇略を顕したところ、東奥の夷が恐れて言うには鬼神のようだと。
また東奥の任にあったとき清原家衡、武衡を攻め伏せ、その武威は益々輝いたものであった。

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本能寺の変で灰燼と化した華麗壮大な幻の名城]]></description>
         <pubDate>Fri, 11 Jul 2008 16:04:58 +0900</pubDate>
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