■ 東照宮御實紀(天文十三年)
地域:
愛知
天文十三年
これは竹千代君三つの御歳の事である。
廣忠離別夫人水野氏
御母子の御別れを惜しみなられる御心の内はさぞかし寂しかっただろう。さてその日になれば、金田、阿倍など言える御家人等を添えられて、北方を御輿の載せて刈屋へ送り遣わされる。北方が途中において送りの人々におっしゃるには、わが兄下野殿は極めて短慮の人である。汝等が我を送りに来たと聞いたならば、定めて憤って一々切り捨てられるのでは、又は髪を剃って追放し辱かしめるか、二の外には出ないはず、左もない事にはわらはだけ縁盡きて兄のもとへ帰されるとも、竹千代を岡崎に留め置けば、岡崎のものを他人とは思わず、そのうえ下野殿と竹千代とは叔父甥の中であるのだから、終には和睦する事だ。下野殿が今汝等を誅してしまう事に於いては、後に和睦の妨げとなるであろう。速やかにわらはを捨てて歸るようにと言って、どんなに申しても聞き入れてはくれないものだから、御送りの輩もしかたがなく、その所の民どもに御輿を渡し、御暇を申したが、猶も心配で、片山林の陰に身を潜めて様子を伺って居たところ、果たして刈屋より混申ニ三十人出て来た。御送りの者悉く討ち捨てよと下野殿の仰せ受けて来て居るので、御送りの岡崎の士等は何処にいるのかと訝る。北方が御輿の中から彼等を招いて、岡崎のものどもは早くにわらはを捨てて歸ってしまい、今頃は早岡崎に至って居るであろう。追いかけても追いつかないであろうと仰せられたので、刈屋のものどもも力なく御輿を守護して刈屋へ帰った。この北方の姉君は形原紀伊守家廣の妻になるが、家廣も廣忠卿が既に北方を御離婚した事から、我又水野の縁に繋がってはならないと言って、その妻も刈屋に送り歸した事に、信元が大いに怒って、送りの者を一人残さず斬って捨てた。ここに居て後までも、廣忠卿の北方は女ながらも、海道一の弓取と呼ばれた名将の母君でいらっしゃって、はなはだしく御思慮だなあと、世の中にも聞き伝えて感歎しない者はいなかった。
廣忠男女
廣忠卿の御子は竹千代君の外に男子君一人、女君三人いらっしゃった。御男子は家元、後に康元、生涯足萎えて世に出て人にも交わる事はなかった。後に正光院と生活を共にした。女君は多劫姫と申し、櫻井の松平與一忠政に嫁せられ、後にその弟與一郎忠吉に合わせなさり、其後また保科弾正忠光に降嫁せられる(藩翰譜に、正光に降嫁あるとし、烈祖の御妹は、傳通院殿、久光のもとにおいて設けなさる所と言うは誤りである)その次は市場殿と言って、荒川甲斐守頼持(又義虎)に嫁しなさり、後に筒井紀伊守政行の嫁ぎなさる。その次矢田姫と申し、長澤の源七郎康忠に嫁しなさった。
廣忠卿にはこの後、田原の城主戸田弾正少弼康光の女を迎えなさったが、この御腹には御子はお出来にならなかった。福釜の甚三郎信乗の子兵庫の頭親良よ言えるも、桑谷の右京大夫忠政と言えるも、内藤豊前守信成と言えるも、實はこの卿の御子であるとも伝えられている。
天文十四年岩松八彌傷廣忠
十四年彌生の頃御家人岩松八彌何の理由もなく、御閑居の御傍らによって御股を一刀突き申し上げて門外へ逃出した。(隣國より頼まれて刺客となったと言う)御傍らの者ども驚き慌てて追いかける。卿も刀を取られなさり、逃すものかと追い出しなさったが、御股の疵が痛まれるので追いつく事が出来なかった。
植村新六郎誅岩松八彌
此時も植村新六郎が外のほうから来ていながら、思わず八彌と行合いそのまま押し捕らえ、共に空堀りの中に落ち入り、終に組敷って八彌を伐果す。この植村先に清康君御事のあった時は阿倍彌七を即座に伐止め、今度はまた八彌をも其座を去る事無く首を取り、二代の主君の御仇を即座に誅した冥加の武士と、感じ羨まない者はいなかった。
内膳信孝恣威權老臣猜忌
このほど織田信秀は尾州より三河を併呑しようと頻りに謀を巡らす事に、三州においても上和田城主三左衛門忠倫、上野の城主酒井将監忠尚等をはじめ、これに内応する徒も少なくはなかった。ここに又蔵人信孝は廣忠卿を翼立させた功により、その威權「いけん=相手にこちらの意思を押しつけて従わせる力。威力と権力。」肩に並ぶ者がない事から、縦恣「ほしいまま」の振る舞いが多い事を、大蔵定吉はじめ老臣共予ねてから親密とは言えず互いに猜忌「さいき=ねたみきらうこと」し、信孝が驕逸「きょういつ=おごりたかぶって勝手な行動をする・こと(さま)。」そのままに捨ておかれれば、昔の内膳信定を再び生かせる如くなってしまうと、折々に廣忠卿を諌めたのである。
これは竹千代君三つの御歳の事である。
廣忠離別夫人水野氏
御母子の御別れを惜しみなられる御心の内はさぞかし寂しかっただろう。さてその日になれば、金田、阿倍など言える御家人等を添えられて、北方を御輿の載せて刈屋へ送り遣わされる。北方が途中において送りの人々におっしゃるには、わが兄下野殿は極めて短慮の人である。汝等が我を送りに来たと聞いたならば、定めて憤って一々切り捨てられるのでは、又は髪を剃って追放し辱かしめるか、二の外には出ないはず、左もない事にはわらはだけ縁盡きて兄のもとへ帰されるとも、竹千代を岡崎に留め置けば、岡崎のものを他人とは思わず、そのうえ下野殿と竹千代とは叔父甥の中であるのだから、終には和睦する事だ。下野殿が今汝等を誅してしまう事に於いては、後に和睦の妨げとなるであろう。速やかにわらはを捨てて歸るようにと言って、どんなに申しても聞き入れてはくれないものだから、御送りの輩もしかたがなく、その所の民どもに御輿を渡し、御暇を申したが、猶も心配で、片山林の陰に身を潜めて様子を伺って居たところ、果たして刈屋より混申ニ三十人出て来た。御送りの者悉く討ち捨てよと下野殿の仰せ受けて来て居るので、御送りの岡崎の士等は何処にいるのかと訝る。北方が御輿の中から彼等を招いて、岡崎のものどもは早くにわらはを捨てて歸ってしまい、今頃は早岡崎に至って居るであろう。追いかけても追いつかないであろうと仰せられたので、刈屋のものどもも力なく御輿を守護して刈屋へ帰った。この北方の姉君は形原紀伊守家廣の妻になるが、家廣も廣忠卿が既に北方を御離婚した事から、我又水野の縁に繋がってはならないと言って、その妻も刈屋に送り歸した事に、信元が大いに怒って、送りの者を一人残さず斬って捨てた。ここに居て後までも、廣忠卿の北方は女ながらも、海道一の弓取と呼ばれた名将の母君でいらっしゃって、はなはだしく御思慮だなあと、世の中にも聞き伝えて感歎しない者はいなかった。
廣忠男女
廣忠卿の御子は竹千代君の外に男子君一人、女君三人いらっしゃった。御男子は家元、後に康元、生涯足萎えて世に出て人にも交わる事はなかった。後に正光院と生活を共にした。女君は多劫姫と申し、櫻井の松平與一忠政に嫁せられ、後にその弟與一郎忠吉に合わせなさり、其後また保科弾正忠光に降嫁せられる(藩翰譜に、正光に降嫁あるとし、烈祖の御妹は、傳通院殿、久光のもとにおいて設けなさる所と言うは誤りである)その次は市場殿と言って、荒川甲斐守頼持(又義虎)に嫁しなさり、後に筒井紀伊守政行の嫁ぎなさる。その次矢田姫と申し、長澤の源七郎康忠に嫁しなさった。
廣忠卿にはこの後、田原の城主戸田弾正少弼康光の女を迎えなさったが、この御腹には御子はお出来にならなかった。福釜の甚三郎信乗の子兵庫の頭親良よ言えるも、桑谷の右京大夫忠政と言えるも、内藤豊前守信成と言えるも、實はこの卿の御子であるとも伝えられている。
天文十四年岩松八彌傷廣忠
十四年彌生の頃御家人岩松八彌何の理由もなく、御閑居の御傍らによって御股を一刀突き申し上げて門外へ逃出した。(隣國より頼まれて刺客となったと言う)御傍らの者ども驚き慌てて追いかける。卿も刀を取られなさり、逃すものかと追い出しなさったが、御股の疵が痛まれるので追いつく事が出来なかった。
植村新六郎誅岩松八彌
此時も植村新六郎が外のほうから来ていながら、思わず八彌と行合いそのまま押し捕らえ、共に空堀りの中に落ち入り、終に組敷って八彌を伐果す。この植村先に清康君御事のあった時は阿倍彌七を即座に伐止め、今度はまた八彌をも其座を去る事無く首を取り、二代の主君の御仇を即座に誅した冥加の武士と、感じ羨まない者はいなかった。
内膳信孝恣威權老臣猜忌
このほど織田信秀は尾州より三河を併呑しようと頻りに謀を巡らす事に、三州においても上和田城主三左衛門忠倫、上野の城主酒井将監忠尚等をはじめ、これに内応する徒も少なくはなかった。ここに又蔵人信孝は廣忠卿を翼立させた功により、その威權「いけん=相手にこちらの意思を押しつけて従わせる力。威力と権力。」肩に並ぶ者がない事から、縦恣「ほしいまま」の振る舞いが多い事を、大蔵定吉はじめ老臣共予ねてから親密とは言えず互いに猜忌「さいき=ねたみきらうこと」し、信孝が驕逸「きょういつ=おごりたかぶって勝手な行動をする・こと(さま)。」そのままに捨ておかれれば、昔の内膳信定を再び生かせる如くなってしまうと、折々に廣忠卿を諌めたのである。
| 2008/09/23 17:07:15 |
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