■ 東照宮御實紀(天文十六年)
地域:
愛知
天文十六年正月頃卿御病悩になられていらしゃったので、御名代として信孝を今川の元へ歳首の御使いに赴かせ、その跡において信孝の三木の領地を没入したそうだ。信孝が歸って大いに驚き、吾翼立の功があって罪は無い、何故にこのように所領を没入されるのだ。これはきっと吾を憎いと思う大蔵等の讒訴「ざんそ=人を陥れるために悪く告げ口をすること。また、かげぐち。」の致す處であると言って、様々陳謝するのだが、これを取次者もいない事から、終に憤りに絶える事が出来ずに、これも織田方に内応の志を抱いたのであった。
織田信秀侵三河
此ほど道閲入道殿も亡くなられていらっしゃるので、織田信秀歓び大方ではない。今は三州を侵掠する事は心やすいと先ず安祥を責め落とし、其子三郎五郎信廣を込め置き、浅理筒針に砦を構え、上和田に三左衛門忠倫、上野に酒井将監忠尚を置いて椅角の勢を張れば、もとの信定の子内膳清定、山中の權兵衛等もこれに応じ、岡崎は孤城となって甚だ危うし、國中は大いに乱れて明けても暮れても互の争戦止む事がなかった。この時筧平三郎重忠は岡崎の御家人であるが、偽って忠倫に降参し、親しみよって忠倫を刺し殺す。今度は反逆の首長忠倫が討たれ事から、岡崎方は大いに歓び、織田方は援助を失って、信秀は大いに怒り、であるならと自ら大軍を率いて三州に出陣し、岡崎を攻め抜こうと、用意する様子が聞かれる事から、岡崎にも是を防ごうとするが、衆雇敵が出来ずに、今川の元へ援兵を請う。義元が聞いて人質を請う為に、竹千代君僅か六歳になられていらっしゃるのを、駿州に質子になる事と定められて、石川與七郎數正、天野三之助康景、上田萬五郎元次入道慶宗、金田與三右衛門正房、松平與市忠正、平岩七之助親吉、榊原平七郎忠正、江原孫三郎利全等全て廿八人、雑兵五十餘人、阿部甚五郎正宣の子徳千代(伊豫守正勝である)六歳になるを遊びの友として、御輿に同じように乗せられて遣わされる。
戸田康光送家康于尾張
ここに田原の戸田弾正少弼康光は廣忠卿の今の北方の御父であるが、此御親戚をもって、陸地は敵が多い。船によって我領地から送り申し上げると約束し、西郡から吉田へ入れられるところを、康光は其子五郎政直と心を合わせて、御共の人々を偽り謀り、船に乗せて尾州熱田に送り、織田信秀に渡したところ、信秀悦び大方ではない。熱田の加藤図書順盛の元へ預け置たのだ。こうして信秀から岡崎へ使いを立て、幼息竹千代は我膝下に預り置いた。今にいたっては今川の與國を離れ、我のほうに降参するほうが良い。もし又その事が適わない時には、幼息の一命を頂戴する事になると申し送った。卿はその使いに対面なさって、愚息の事は織田方へ質子に送るのではない、今川へ質子としたのだから、不義の婚姻のつき合いを忘れ、中途で奪い取って尾州に送る所である。廣忠は一子の愛に引かれ、義元と多年の奮好を代変える事があってはならない。愚息の一命は、霜臺の思慮に任せる方が良いと返答なさったので、信秀も流石に卿の義心に感じたであろうか。
織田信秀幽家康於萬松寺
竹千代君の命を奪おうともせず、名古屋萬松寺天王坊に押し込め置いて、勤番も厳しく付け置いたと言うことだ。
今川義元も卿の義心に感じ、それならば援兵を遣わすようにと、遠江並びに東三河の勢を差し向け、三州小豆坂において織田勢と合戦し、織田方終に引き返す。蔵人信孝が織田方に内通すると雖も、三左衛門忠倫が討たれた後は、同志の輩が衰落するのを憤り、自ら大明寺村に打って出て敢無く討たれ、權兵衛重弘も山中城から落ち失せたところ、織田方にはいよいよ大軍を起し、岡崎へ乱入しようとすれば岡崎も防戦の用意を専らにすると言っても、織田方は大軍岡崎は小勢であるから、どんなに計らおうとも上下は心を悩ます。
其上廣忠卿には去年以来御心地例ならぬようでいっらしゃるが、日増しに重くなられ、
天文十八年三月廣忠卒葬于大樹寺
天文十八年三月六日廿四歳で御亡くなられになる。まだ三十歳にも満ちてもいないのに予期せぬ出来事であったので、一門御家人等嘆き悲しまぬ者はいなかった。やがて大樹寺納め進めらす。
松應寺建立
(大樹寺大林寺松應寺奮記を合わせ考えると、この時織田方は岡崎を攻め滅ぼそうとする事が急であって、再び、今川へ加勢を請うている最中、廣忠卿逝去していらっしゃる事から、御家人等はこの事が織田方へ聞こえてしまうことを恐れ、其頃深く御帰依している法蔵教翁和尚と内話して、岡崎の大林寺において後の法要をして、能見の原に内葬して後、今川へも其旨を告げ送り大樹寺において葬禮行い、年を経て後能見の原御密葬の地にも一字を造営あり、松應寺が是であると言う)慈光院と謚する。又瑞雲院殿とも申し、慶長十六年大一統の後になって大納言を贈られ、大樹寺殿と號された。
織田信秀侵三河
此ほど道閲入道殿も亡くなられていらっしゃるので、織田信秀歓び大方ではない。今は三州を侵掠する事は心やすいと先ず安祥を責め落とし、其子三郎五郎信廣を込め置き、浅理筒針に砦を構え、上和田に三左衛門忠倫、上野に酒井将監忠尚を置いて椅角の勢を張れば、もとの信定の子内膳清定、山中の權兵衛等もこれに応じ、岡崎は孤城となって甚だ危うし、國中は大いに乱れて明けても暮れても互の争戦止む事がなかった。この時筧平三郎重忠は岡崎の御家人であるが、偽って忠倫に降参し、親しみよって忠倫を刺し殺す。今度は反逆の首長忠倫が討たれ事から、岡崎方は大いに歓び、織田方は援助を失って、信秀は大いに怒り、であるならと自ら大軍を率いて三州に出陣し、岡崎を攻め抜こうと、用意する様子が聞かれる事から、岡崎にも是を防ごうとするが、衆雇敵が出来ずに、今川の元へ援兵を請う。義元が聞いて人質を請う為に、竹千代君僅か六歳になられていらっしゃるのを、駿州に質子になる事と定められて、石川與七郎數正、天野三之助康景、上田萬五郎元次入道慶宗、金田與三右衛門正房、松平與市忠正、平岩七之助親吉、榊原平七郎忠正、江原孫三郎利全等全て廿八人、雑兵五十餘人、阿部甚五郎正宣の子徳千代(伊豫守正勝である)六歳になるを遊びの友として、御輿に同じように乗せられて遣わされる。
戸田康光送家康于尾張
ここに田原の戸田弾正少弼康光は廣忠卿の今の北方の御父であるが、此御親戚をもって、陸地は敵が多い。船によって我領地から送り申し上げると約束し、西郡から吉田へ入れられるところを、康光は其子五郎政直と心を合わせて、御共の人々を偽り謀り、船に乗せて尾州熱田に送り、織田信秀に渡したところ、信秀悦び大方ではない。熱田の加藤図書順盛の元へ預け置たのだ。こうして信秀から岡崎へ使いを立て、幼息竹千代は我膝下に預り置いた。今にいたっては今川の與國を離れ、我のほうに降参するほうが良い。もし又その事が適わない時には、幼息の一命を頂戴する事になると申し送った。卿はその使いに対面なさって、愚息の事は織田方へ質子に送るのではない、今川へ質子としたのだから、不義の婚姻のつき合いを忘れ、中途で奪い取って尾州に送る所である。廣忠は一子の愛に引かれ、義元と多年の奮好を代変える事があってはならない。愚息の一命は、霜臺の思慮に任せる方が良いと返答なさったので、信秀も流石に卿の義心に感じたであろうか。
織田信秀幽家康於萬松寺
竹千代君の命を奪おうともせず、名古屋萬松寺天王坊に押し込め置いて、勤番も厳しく付け置いたと言うことだ。
今川義元も卿の義心に感じ、それならば援兵を遣わすようにと、遠江並びに東三河の勢を差し向け、三州小豆坂において織田勢と合戦し、織田方終に引き返す。蔵人信孝が織田方に内通すると雖も、三左衛門忠倫が討たれた後は、同志の輩が衰落するのを憤り、自ら大明寺村に打って出て敢無く討たれ、權兵衛重弘も山中城から落ち失せたところ、織田方にはいよいよ大軍を起し、岡崎へ乱入しようとすれば岡崎も防戦の用意を専らにすると言っても、織田方は大軍岡崎は小勢であるから、どんなに計らおうとも上下は心を悩ます。
其上廣忠卿には去年以来御心地例ならぬようでいっらしゃるが、日増しに重くなられ、
天文十八年三月廣忠卒葬于大樹寺
天文十八年三月六日廿四歳で御亡くなられになる。まだ三十歳にも満ちてもいないのに予期せぬ出来事であったので、一門御家人等嘆き悲しまぬ者はいなかった。やがて大樹寺納め進めらす。
松應寺建立
(大樹寺大林寺松應寺奮記を合わせ考えると、この時織田方は岡崎を攻め滅ぼそうとする事が急であって、再び、今川へ加勢を請うている最中、廣忠卿逝去していらっしゃる事から、御家人等はこの事が織田方へ聞こえてしまうことを恐れ、其頃深く御帰依している法蔵教翁和尚と内話して、岡崎の大林寺において後の法要をして、能見の原に内葬して後、今川へも其旨を告げ送り大樹寺において葬禮行い、年を経て後能見の原御密葬の地にも一字を造営あり、松應寺が是であると言う)慈光院と謚する。又瑞雲院殿とも申し、慶長十六年大一統の後になって大納言を贈られ、大樹寺殿と號された。
| 2008/09/24 14:18:26 |
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